ナベノハウス活動記録

熊本コモンハウス「ナベノハウス(鍋乃大厦)」@KNabezanmaiの活動記録です

「桐島、部活やめるってよ」鑑賞会の記録

 8月24日、北熊本コモンスペース、通称なべざんまい

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で『桐島、部活やめるってよ』鑑賞会が敢行されました。初見の私は人物関係の把握が追い付かず「難しい映画だ…」と思っていましたが、鍋を囲む人々と舌鼓を打ちながら話しているうちに作品の機微がわかってきて、ずいぶん練られた作品だと舌を巻くに至りました。したした。

 

以下は鑑賞会の報告を兼ねつつ、『桐島、部活やめるってよ』の解題に私個人の感想を交えた記事となります。「なべざんまい」の活動に興味を持ってもらえれば幸いです。

 

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ラオスなべ



 

スクールカースト:その頂点に君臨する桐島

スクールカーストとはそもそも何なのか……という問いはそれだけで本が一冊書けるくらい重い問題なので、ここでは作中の描写に即した説明をするにとどめます。

学校という組織の中で生徒ひとりひとりがどのくらい注目を集め、周囲に影響力をもつか。作中の学校は部活動に力を入れており、朝礼では良い成績を収めた部活が表彰されます。この学校公認の競争がカーストを形成し維持する原動力です。スポーツをはじめとする成績のよい部活に入り、活躍することで注目と影響力とを一身に集めることができます。逆に地味で文化系の部活は脇に追いやられています。この、部活の序列が生徒内の序列にそのまま反映し、「カースト」が生まれるのです。なお、帰宅部には部活の威光がありませんから、部活の格付けから降りた者や学校が求めてくるあるべき姿に従わない者など、学校組織のアウトローがいるわけです。

もう一点、スクールカーストに重要なのはジェンダーです。運動部は総じて評価が高いようですが、なかでも強豪と名をはせる運動部の男子選手は女子学生から人気があります。スクールカーストの上位層は恋愛ができる層でもあります。逆に、文化系で成績もぱっとしない下位層は恋愛とはあまり縁がなく、あっても片思いに終わる傾向があります。しかし、だからこそ部活の成績や人気やモテとは違った価値を見いだし追い求めることができるのです。

桐島は男子バレーボール部キャプテンで、その実力は抜きんでており県選抜に選出されるほど。誰もが期待し注目する、スクールカーストの頂点にいます。何ごともそつなくこなせる非の打ちどころのない生徒であり、容姿の良い梨紗と付き合っています。ただし、梨紗は「大学生と付き合っていた」うわさが流れるなど、大人びているものの皆から称賛される生徒ではありません。というより、校内で梨紗からも認められる実力があるのは桐島だけ、ということなのでしょう。あまりに万能なのでバレー部の周囲の選手から距離を置かれ、ぎくしゃくしていたことが仄めかされています。

その桐島が突然「蒸発」し、学校に来なくなり、彼女の梨紗や親友の宏樹とすら一切連絡を取らなくなります。そして、桐島がバレー部をやめるというニュースが徐々に校内に広まっていくところから物語が始まります。

 

桐島の蒸発とスクールカーストの動揺

作中に桐島は登場せず、なぜ蒸発したのかという理由も語られません。もちろん視聴者はそこに想像を働かせようとするのですが、そうした想像を一切拒むほど徹底した演出であり、理由を探すことに作品解釈上の意味はほとんどないと思います。「桐島が部活をやめる」といううわさが桐島の「実体」のすべてなのです。ヒッチコックが言うところのマクガフィンでしょうか。

桐島が突然いなくなることで、スクールカーストの秩序が動揺します。しかし、カースト下位の映画部だけはほとんど意に介することなく、映画制作に没頭しています。外からの評価を気にせず自分たちのやりたいことをやろう、という意思の強さが際立つのです。映画のポスターは、映画部の涼也がカメラをかまえ、そこに桐島の蒸発に動揺する人間模様が写しだされています。それは映画部だからこそかまえることのできるカメラなのです。

反対に、もっとも動揺するのは桐島の彼女梨紗と、その友人であり宏樹の彼女でもある沙奈、その二人と仲良くしているバドミントン部の実果とかすみです。そもそも宏樹が桐島の親友であり、桐島と似てスポーツも彼女も「できるやつ」でした(そのことを自分で嫌味っぽく言います)。宏樹は野球部のおそらくエースでしたが、今は部活に出ておらず、野球部のキャプテンが戻ってくるよう何度も働きかけています。しかし人気は健在で、帰宅部の竜汰や友弘とバスケをする姿に窓から数人の女子生徒が手を振るシーンがあります。つまり、桐島と宏樹とはともにスクールカーストの頂点にあり、付き合っている梨紗と沙奈もまた頂点にいる。実果とかすみはおそらく以前は仲が良かったのでしょうが、バドミントンに打ち込むうちに二人とはしだいに距離ができていました。

また、桐島に依存していたバレー部も動揺します。とくに、桐島のサブだった風助は桐島の穴埋めとして試合に出られるようになったものの、実力は遠く及ばずチームのお荷物になってしまう。思うように結果が出せないチームの苛立ちは風助に集中します。そして、バレー部の隣で練習している実果はむしろ風助に同情してしまうのです。実果は、自分より優秀な選手だった姉に対するコンプレックスがあり、どんなに頑張っても乗り越えられない壁とその苦しみを理解されない孤独の中で風助と自分を重ねていくようになりました。

かすみも、たまたま入った映画館で「鉄男」を涼也と観てから、映画に没頭する涼也に興味がわいてきます。確かに涼也はスポーツ音痴で、映画の話しかできません。しかし映画のためなら思い切って行動する意思があり、そこがかすみの琴線に触れたのです。かすみが周りを気にして隠れて付き合っている竜汰も帰宅部で、目立ちたがりの浮ついた性格も相まってスクールカーストの秩序とは少し距離を置いています。かすみは完全にスクールカーストに乗っかっている梨紗や沙奈とは相いれないものを感じていたのです。

四人は、映画甲子園で一次選考のみ通過した映画部のあまりにくさいタイトルを笑います。しかし、これを機に顧問の先生のわがままをはねのけて映画を一から作ることにした映画部の団結と、桐島と連絡がとれない不安の中でお互いの溝が鮮明になりばらばらになっていく四人の関係とは大きなコントラストになっています。

ちなみに、宏樹は桐島が部活を終えるまで竜汰や友弘とバスケをして待っていましたが、桐島がいなくなったことでその三人の関係も終わっていくのです。スクールカーストの象徴たる桐島の威光のもとかろうじてつながっていた人間関係は、これを機に根本的な見直しを求められることになります。

 

映画部のゾンビと屋上の平等

涼也は、桐島を意に介することなくカメラを回し続けます。

映画部顧問である片山は大人のつくりあげた「青春映画」を作るよう部員たちに強要していました。その作品が一次選考に残ったことを恩に着せてさらなる介入を続け、涼也や相棒の武文が書いたゾンビ映画の脚本を没にしようとします。ついに二人は独断で映画を撮りはじめました。武文は「今までで一番楽しい」と言って、ためらう涼也の背中を押します。

映画に没頭する涼也にかすみが興味を持ったように、映画部とのかかわりを通して、吹奏楽部の部長である亜矢も変わっていきます。亜矢は宏樹に好意があり、授業中も、放課後の自主練習でも、ずっと宏樹のことばかり見ていました。もちろん宏樹は沙奈と付き合っており、亜矢の視線に気づいている沙奈はこれ見よがしのキスを見せつけます。しかしそもそも、亜矢は宏樹のことをどこまで理解していたのか。野球もバスケもサッカーも上手く、人気のある宏樹になんとなく片思いしていたのではないでしょうか。

宏樹を見るために屋上で練習していた亜矢は、同じく屋上で撮影しようとした映画部とぶつかります。涼也は映画のために、亜矢に場所をずらしてくれるよう要求します。亜矢は宏樹の見える場所にいたいので、涼也の要求をはねつけます。その理由が、吹奏楽部はまじめに練習しているが、映画部のゾンビ映画は「遊び」だというものです。武文は「吹奏楽部の方が偉いと思っている」と涼也に耳打ちします。ここに、亜矢のスクールカースト的な価値観がにじみ出ています。

このとき、涼也は亜矢に屋上を使う許可を取ったのかと聞き、取っていないなら屋上を使う権利は平等だと主張します。軽んじられ、笑いものにされている映画部の意地をみせたセリフです。亜矢が宏樹を諦めたのは沙奈のキスの後ですが、作品の文脈から言えば、スクールカーストの価値観を脱したと読んでもいいかもしれません。

そしてもう一つ、象徴的なのは桐島が屋上に「現れる」ことです。たまたま屋上に向かっていた映画部だけが桐島とすれ違いますが、映画部は桐島に関心がありませんでした。カーストの頂点から消えた桐島が屋上に向かうのは、そこが作中で特別な、平等な場所になっているからです。

屋上で撮影を始める映画部に、桐島が屋上にいるらしいといううわさを聞きつけたバレー部とそれを追いかけてきた実果とかすみ、宏樹や竜汰や友弘、そして梨紗と沙奈が現れます。バレー部の副キャプテン孝介は桐島の代わりに奇態なゾンビ集団がいることにいら立ち、撮影セットの隕石を蹴飛ばしました。映画部員たちは怒り、「謝れ」と要求します。これも、スクールカーストの上下関係では起こるはずのなかったことです。孝介は逆切れして涼也の胸ぐらをつかみます。このとき、沙奈が小声で「やっちゃえ」とつぶやきます。カースト上位層の驕りが窺えるセリフです。一歩間違えれば暴力沙汰で部活ができなくなることを恐れた風助があわてて間に入りますが、今度は友弘が涼也の胸ぐらをつかむと沙奈が「やめなよ」と叫び、都合よく自分の立場を変える沙奈にかすみが平手打ちをします。処世術に長けた沙奈と不器用に意思を貫く涼也とで、かすみは後者の側に立ったのです。

このとき、涼也はゾンビのキャストにバレー部員たちを襲わせることで撮影を強行しようと思い立ちます。涼也の檄に突き動かされた映画部員たちとバレー部員との乱闘の中、涼也のかまえるカメラの中には次々に食い殺されていくバレー部員、そしてかすみが映し出されます。涼也は映画館での一件以来かすみに好意を抱いていましたが、竜汰がかすみの腕にミサンガを結ぶところを見てしまいました。

ゾンビはカースト上位に君臨する者への反逆であり、そもそも多くのゾンビ映画は虐げられた者の反逆(とそれに対する支配者の恐怖)がモチーフになっています。しかしそこに涼也のかすみに対する失意が重ね合わせになっているところが、泥臭い演出となっています。結局涼也はカメラを取り落とし、映画部員たちもバレー部員にのされてしまうのですが、その後撮影を再開するときに涼也は「俺たちはこの世界で生きていかなければならないのだ」と言わせます。そうや。生きていこうな。

ちなみに、バックグラウンドには吹奏楽部のローエングリン「エルザの大聖堂への行進」が鳴っています。オペラでは白鳥の騎士ローエングリンとの婚礼のために、ブラバント公国の公女エルザが大聖堂へ行列になって向かう場面です。これは映画部への(そしてすべての舞台をセットした「桐島」からの)祝福ととっていいでしょう。

 

生きる意味をめぐる宏樹と涼也

映画の終幕は、本来は交わることのなかった宏樹と涼也との交錯です。バレー部員たちが去った後の屋上で、宏樹は映画部の8ミリカメラを涼也に向けます。

宏樹は確かに桐島と似ていますが、桐島よりは一段下、あるいは、桐島より先に部活を頑張ることに疑問を持ってしまいました。いくら部活を続けてもプロになるわけではないし、意味がない。3年のキャプテンが、スカウトが来ないのにドラフトが終わるまで部長でいるということも宏樹には理解できません。そこで恰好をつける意味があるのかと。

だから、「将来は映画監督ですか?」と涼也に聞きます。映画監督になるなら、砂を噛んでも8ミリカメラにかじりつく意味があるからです。しかし涼也は、映画監督にはなれない、でも「好きな映画と自分たちが今取っている映画がつながっている」と返し、逆に宏樹にカメラを向けます。涼也は宏樹の容姿を「かっこいい」と素直に褒めますが、宏樹は意味を見いだせずに何もできないでいる自分を照らしだされ、涙ぐむと背中を向けて屋上を去ります。そして桐島に電話をかけるのですが、やはり応答はない。背後では野球部が練習を続けている……。

なるほどカーストの上にいることは、周囲の称賛を得やすい。しかし、自分が何を欲望するのか、何を貫くのかということには鈍感になります。その空虚に宏樹は耐えることができなかった。最後までできませんでした。涼也は校内の生徒からも教員からも軽んじられていますが、自分の欲望に素直で、行動力があり意思があります。そして、涼也の持つ力に気づくかすみのような人もいるのです。

 

 

 

さらざんまい

 

ノンポリ荘一号館「なべざんまい」の記念すべきキックオフイベントはアニメ「さらざんまい」鑑賞会でした。

鑑賞会はさらざんまいを観ながら鍋をつつくというスタイルで行われ、これからもいろいろな映像作品をサカナに飲み食いしようという意図を込めて一号館は「なべざんまい」命名と相成りました。

「さらざんまい」鑑賞会についてもいずれご報告に上がりたいとおもっております。