ナベノハウス活動記録

熊本コモンハウス「ナベノハウス(鍋乃大厦)」@KNabezanmaiの活動記録です

『聲の形』鑑賞会の記録


9月1日、北熊本コモンスペース、通称「なべざんまい」で『聲の形』鑑賞会が敢行されました。私は映画館で見ましたが、再度皆で鑑賞することで作品への理解が深まりました。

 

以下は鑑賞会の報告を兼ねつつ、『聲の形』の解題に私個人の感想を交えた記事となります。「なべざんまい」の活動に興味を持ってもらえれば幸いです。

 

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おでんなべ

映画の主要登場人物

石田将也

石田美也子(将也の母)

将也の姉

マリア(将也の姉の子)

西宮硝子

西宮八重子(硝子の母)

西宮弓弦(硝子の妹)

西宮いと(硝子の祖母)

永束友宏

植野直花

佐原みよこ

川井みき

 

将也の自殺

高校3年の将也が硝子に筆談用ノートを渡しに行くところから物語は始まります。将也を見るなり、硝子は逃げ出し、将也は追いかけます。そして将也は「友だち」になろうと手話で伝えます。

時間は遡って、小学校6年のとき、将也のクラスに硝子が転校してきます。耳が聞こえないので筆談をする必要があるとわかったとき、クラスはどよめきますが、将也は関心をしめします。耳が聞こえないことに最初は配慮を見せていた同級生たちは、発声に難がありコミュニケーションに時間のかかる硝子を疎んじはじめます。将也はその不満を黒板に大書して硝子に見せ、わざとらしく消しますが、硝子は「ありがとう」と黒板に書きます。将也は硝子が怒ったり泣きだしたりするのを予想していたので拍子抜けします。そして、いつも曖昧に笑ってやり過ごそうとする硝子が「面白い」から声をまねしたり、後ろで大声を出したり、筆談用ノートを池に放り込んだりといたずらをします。将也の友人はそれをどこか楽しんでいる様子で、クラスの皆も止めません。

硝子と友人になろうとして手話を学び始めた佐原はいじめに巻き込まれすぐに学校に行けなくなります。

将也と同じように、植野も硝子に苛立っていました。植野は将也と似て、うわべをつくろうより不満をストレートに表に出すタイプであり、そして硝子がいじめの対象になるのは当然だと思っていました。植野は硝子が補聴器をつけていることに気づきます。将也は植野が投げて渡した補聴器を窓の外に放り投げました。

こうして、硝子の補聴器で「遊ぶ」ことを覚えた将也たちは半年で8個も補聴器を紛失・損壊させます。ある日、補聴器を強引に取った硝子の耳から血が流れ、それまでいじめに乗っていたクラスは将也が「やりすぎ」たという空気に変化します。さらに校長が硝子のいじめが問題になっていること、補聴器代が高額であることを告げます。今まで、担任の竹内は「問題のあるクラス」とみられることを嫌い、形だけの注意しかしてきませんでした。しかし校長の前でメンツを保つため、将也を大声でどなりつけます。すると、将也に同調していたはずの友人は「止めようとした」「悪口なんて言っていない」と手のひらを返し、将也は悪者としてクラスで孤立します。そしていじめのターゲットは将也に替わります。しかし、理髪店で生計を立てるシングルマザーの美也子が補聴器代170万を払ったことに、母の苦労を知る将也は申し訳なさを募らせます。そして、硝子に悪いことをした自分が責められるのは当然と考える将也はいじめを一人で背負いこみ、他人の顔を正面から見ることができず、他人の声を聞くことのできない、内なる罪悪感に苛まされながら小学校を卒業し、孤独で「浮いた」中学生活を送ることになります。

将也は自分の罪を償うため、高校生までに170万円をため、手話を学び、そして悪口がたくさん書かれた筆談用ノートを硝子に返したあと自殺することを決めます。そしてついにお金がたまり、自殺を決行する日が冒頭のシーンなのでした。

ところが、ノートを渡した将也は硝子に「友だち」になろうと言うのです。つまり、関係をもう一度最初からやり直そうとします。将也は他のクラスの子たちとは違い、転校してきた硝子に強く惹かれるものを感じたのですが、からかい、いじり、クラスの笑いもの、遊びの道具とする方向に進んでしまいました。もっと違う関わり方ができた、違う関わり方をしたかったという、罪悪感とは別の後悔が将也の無意識には渦巻いており、それがとっさに口と手をついて出てきてしまったのです。

おそらく頭の中ではノートを渡して謝ってそのまま自殺に向かう予定だった将也は、拍子抜けしたまま結局自殺できずに家に戻ります。そこで自殺の意図が美也子にばれ、美也子は激怒し将也は平謝りに謝ります。

ここに、美也子の将也に対する影響力の強さが窺えます。美也子が八重子(ちなみに西宮家もシングルマザーです)に謝り170万円を返したことでいじめの件は一応落ち着いたのでした。それは将也ではできないことであり、自分の行為の代償を美也子が被ったことが将也に「自分は悪いことをした、間違ったことをした」と気づかせ後悔させる最大の動機となったのでした。美也子の存在がなければ将也はここまで自らの加害性に苦しむことがなかったでしょう。そしてその罪を忘却せず、孤独を顧みず一人で引き受けようとする意思の強さもなかったでしょう。

そしてもう一つ、大事な点があります。それは将也が直情的で建前よりも本音を直接言動に表すタイプであり、無意識のうちにいい子を演じてしまう川井や打算的な島田や外部の評価を優先する竹内とは異なり、他者と深く関わる素質を持った人間だということです。なお、植野も似たタイプの人間として描かれており、この二人が物語を単なる「いい話」で終わらせない深みとリアリティを与えています。

 

硝子の自殺

硝子は「ガラス」とも読めます。透明で脆いイメージです。透明というのは、自己主張が苦手であり、怒ることができず、処世術はあいまいに笑って「ごめんなさい」と「ありがとう」を繰り返すということです。脆いというのは、これは私の解釈が強く入りますが、音が聞こえないことで周りに迷惑をかける自分、そしてそのためにいつも謝ってお礼を言うばかりの自分ことが嫌いだという自己嫌悪です。

将也の解剖は硝子の解剖の鍵でもあります。両者は内向的であり、問題を自分だけで処理しようとして結果的に自殺を目指してしまう点で似ています。

作中で、いじめ返されている将也の机を拭く硝子に将也がくってかかり、硝子が「私だって頑張っている」と怒って馬乗りになるシーンがあります。これが唯一、作中で硝子がはっきり怒りを表すところです(正確には、将也を追い払おうとした弓弦に怒るシーンもありますが)。私は初見の映画館でこの点を完全に見落としていましたが、硝子は(弓弦を除けば)将也だけに心を開いて怒ることができたのです。だからこそ将也が自分を訪ねてもう一度関係を作ろうとしたことに重い意味があり、ある意味「希望」となり、告白にさえ至るのです。私は最初告白の動機が全く理解できず、恋愛に引き付けて受けを良くするためにプロット上無理やり挿入したのかと思っていました。同時期に公開された『君の名は。』のように、傷ついた・不運な少女とのラブストーリーは鉄板だからです。はっきり言って、この無作法な読みを完全に撤回するつもりはないのですが、もっと穿った解釈も必要でした。

将也と硝子の二人には大きな違いがあります。それは母、美也子と八重子の違いです。八重子は厳格で規範的で子供の意思を曲げてでも自分の理想を押し付けるタイプです。そして、硝子(そして弓弦)の自己嫌悪や自信のなさ(とそれを補おうとする空元気)は、多分に八重子の期待に応えられない、必死に生きている自分を認めてくれないところからきています。それに対して、将也は自分の存在を美也子から肯定されたために根本のところで自分に自信があり、6年間準備してきた自殺を思いとどまることさえできたのです。それに対して、硝子は花火の祝祭的な気分の中でなんとなく自殺を決行してしまいます。ここに両者の根本的な違い、将也の強靭さと硝子の脆さとがあると考えます。

加害者に対して被害者が好意を抱くことはありうることです。自分への自信が根本的に損なわれていればいるほど、自分を傷つける人間にかえって安心し依存してしまいます。まさにここが、硝子が将也を追い払うことができず、むしろ弓弦がまともな主張(加害者は被害者に近づくな、加害者の都合を被害者に押し付けるな)を代弁する理由だと思います。しかし、将也は6年間の苦しみの中で他者と関わるだけの自信と積極性を失っていました(告白さえ誤解してしまいます)。だから硝子と深く関わることも、再び硝子を傷つけることもできませんでした。結果的に二人の関係はあいまいなまま維持されます。夏休みに硝子と弓弦は将也とあちこちに遊びに行きますが、それはどこか空疎であり、小学生の時に激しくぶつかり合ったような充実がありません。そこから、誰からも疎んじられているという硝子の自己嫌悪が高じていく。自分が転校してきたから将也が不幸になり、今なお苦しんでいるとさえ考えてしまう。これが硝子を自殺にまで追い込んだのではないでしょうか。

自殺未遂のあと、硝子はこの病理に気づき、なんとかしなければならないと真剣に考えたと思います。ただ、その方法は小学校の時の友人たちに謝りに行く、ある意味、小学校の失敗した関係をやり直すというものでよかったのか。将也が築き上げ修復しようとしてきた関係を自分が再び壊してしまったという解釈でよかったのか。この展開は納得しづらいし、二度目の視聴を通してくり返し違和感を覚えました。

将也が硝子を助けようとして入院したことを知った植野は、他人とのかかわりを避けて自分中心に行動し周りの人間関係を壊していると言って硝子を責めます。これは小学校の時や観覧車で対話を試みた時から一貫して植野がこだわるところです。この不満は確かに存在し、無視することはできないし、それを何度も表明する植野は作中で非常に重要な役割を担っています。しかし、この不満は非常に危うい。皆がそう思っても上野のように口にしないのは、「周りに迷惑をかける」というのは硝子の障害特性を周囲が受け入れないからであり、「迷惑」がかからないように変わっていくべきなのは硝子ではなく周囲の人間たちの方だという正論が厳として存在するからです。

硝子の自殺未遂を止めたことで、将也に再び硝子と深く関わろうとする自信が芽生えます。ふたたび目覚めた将也が橋の上で謝ることができたのは、硝子への理解(それはもちろん聴覚障害への理解を含みます。橋には隔たったものをつなぎ合わせるという象徴的な意味が込められているでしょう)と同時に、将也が自信を取り戻したからです。

しかし、自信を取り戻すという意味では、硝子はどうだったのか。自分の障害特性を肯定し、どんなに周囲と衝突しても生きていけるという自信を持てなければ、「ありがとう」「ごめんなさい」でやり過ごそうとする自分は変わらないのではないか。でも、硝子は自分も失敗してしまったと謝り、「生きるのを手伝ってほしい」という将也を受け入れる。それは将也の物語としては良いのですが、硝子はそれで「私は私が嫌い」という自己嫌悪を脱せるのか、自分の障害特性を肯定して将也とも他の人ともかかわっていくことはできるのか。硝子は作中ずっと謝ってばかりになってはいないだろうか……。

最後に弓弦についても少し触れておくと、弓弦も自己肯定感が低く家出をくりかえし不登校を続けており、しかし姉の硝子を守るために男の子らしく振る舞うことでなんとか自分の存在意義を確保している、非常に脆い一面があります。しかし、弓弦にはその脆さに気づき心配しなおかつその頑張りを肯定してくれる祖母いとがいました。さらに、弓弦は写真を通して自己を表現することができました。

 

匿名の顔

この物語でもう一つ考えなくてはいけないのは、いじめの構造です。

将也と硝子の関係を「いじめ」というかたちで発展し増幅させたのは、本音では硝子を疎んじているにもかかわらず(そうしなかったのは佐原だけです)、表向きは何ごともないかのように振る舞うクラスメイトや、その偽善的な態度を強制してくる教員たちです。それに耐えることができなかったから、将也や植野は硝子にからみ、反抗してこないとわかるや笑いのネタにしはじめました。それはクラスの潜在的な意思を代弁していたから、皆は放置し、どこか楽しみ、間接的に加担したのです。そしてやり過ぎとわかってからは、今度は将也をスケープゴートにし、あくまで自分たちの利益を守ります。この構造を見抜き、誰も将也を責める資格はないと考えるのは植野だけです(佐原も皆がいじめに加担していたことに気づいています)。しかしその植野も結局硝子に怒りをぶつけてしまう。それは、植野が将也に好意をもっており、硝子の転校さえなければ将也と楽しく付き合えたと考えるからです。ここでは、クラス全体がいじめをつくりだしたという構造に誰もたどり着いていません。

将也がなぜ他人の顔を見ることができなくなったのかといえば、それは自分が引き金を引いたいじめが誰も止めることなく暴走していき、それが今度は反転して自分に返ってきたことによって、群れを成した匿名の人間たちへの恐怖を思い知ったからです。皆が自分の陰口をいっている、他人は誰も信用できない、しかしそれは、もとをただせば自分が悪い。こうして将也は他人と関わる自信を失ったのでした。

ここには、単に硝子という被害者に向き合うだけでは解決しない問題が横たわっています。将也は硝子を傷つけ損なったことの罰を受け償いをしなければならないとしても、クラス全体が教員すら巻き込んで加担し作り出した「いじめ」に対して責任を問われるのはあまりに理不尽です。

この理不尽さを突き破り、いじめのすべてを自分に帰着させ背負い込むのは馬鹿げている、将也にも友だちがいていいし、友だちと楽しんでいいし、むしろ硝子との関係をやりなおすためには友だちが必要なんだということに気付かせるのが長束です。他人と関わることができなくなり、硝子との一対一の関係にずっと縛られつづけていた将也に長束が関わることによって、将也は弓弦の拒絶にもかかわらず硝子と再び会うことができるようになりました。そして長束との関係を軸に、すこしずつ友人を取り戻していきます。

将也は最後に、他人と関わる自信を取戻し、一人一人の顔を見、声を聞くことができるようになります。それは将也が硝子への謝罪を達成したことで「もとをただせば自分が悪い」という倫理的な負債を克服したからです。けれども、いじめの構造自体はそれで何も明るみになっていない。硝子と将也のいじめに加担した匿名のクラスメイトたちは匿名のまま学園祭を楽しみ卒業し社会に出て行くことでしょう。この作品は、いじめの残酷さをリアリティをもって描いています。だからこそ、長束の存在は重要であり、橋の上で硝子との関係に区切りをつけた後も、いじめのトラウマを克服するトイレと文化祭のエピソードが挿入されているのです。

この物語は「加害者を生きる」ことが一つのテーマになっています。しかし、その「加害者」は当事者からの告発や糾弾によって成立しているのではない。それが、「正しい」かどうかは置いておいて、この物語のポイントだと思います。硝子が将也に、犯した罪を償い、謝り、更生することを要求することは一度もありません。将也が関係をやり直したいと思っているように、硝子も関係をやり直したいと思っているからこそ物語が成立します。逆に、告発や糾弾を行うのは、出会ったときの弓弦や八重子をはじめ、「あいつはいじめっ子なんだ」と噂するかつての友人たち、「手話ができても償ったことにはならない」と言う川井(川井は手話ができないのに…)など、周囲の人間たちです。

宮地尚子はトラウマを「環状島」にたとえています。中心となる被害者は内海の底に沈んで語れない、そこに巻き込まれた周囲の人によって「環状」に発言が形成され、そして無関心の外海が広がっている。環状島の人びとは、被害者の近くにいるが当事者ではありません。だから発言はときとして無責任になったり、的外れになったりする。それに耐えきれず、橋の上で将也は植野、川井、佐原、長束、真柴の全員を拒絶します。

この拒絶は、将也の入院によってどこか都合よく回収されてしまうけれども、「加害/被害」の二項対立に帰着させようとするのはむしろ周囲の人間たちであり、そしてそれだけが当事者のトラウマに対処する方法ではないだろうという問題提起がなされていると思います。そして、どんなに拒絶されても、いじめの過去を知っても、「加害/被害」の二項対立にとらわれず将也との友情にこだわった長束の積極的な行動が必要だったのです。長束が空気を読めず周りから浮いてしまうひょうきんなキャラであるために、この行動力がぎすぎすした関係の肩の力を抜くように作用しているのがうまいところだと思います。

あと、これとはまったく別の文脈で匿名なのが将也の姉です。姉は作中で意図的に描写が避けられており、名前さえ出て来ません。マクガフィンかな。さらに、彼氏をとっかえひっかえした挙句ブラジル人ペドロと結婚し天真爛漫なマリアが生まれている。これは息づまる物語に風穴を開ける効果を期待してのことでしょうか。あくまで物語であり、フィクションであり、時にはネタで笑ってもいいというメタメッセージ。お姉さんに顔と名前を与えてしまうと、170万円の贖罪など、将也と美也子との関係に介入せざるをえなくなります。それを避けたのでしょう。

 

 

 

環状島=トラウマの地政学 【新装版】

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