ナベノハウス活動記録

熊本コモンハウス「ナベノハウス(鍋乃大厦)」@KNabezanmaiの活動記録です

「"占領の記憶"を問い直す」研究発表会の記録

9月7日、北熊本コモンスペース、通称「なべざんまい」で「"占領の記憶"を問い直す」研究発表会が敢行されました。当日は占領期がどのように語られ/語られずにきたかという問いから議論が盛り上がりました。NHKスペシャル「戦後ゼロ年 東京ブラックホール」が上映され、私も映像に見入ってしまいました。

www.nhk.or.jp

 

研究発表会の内容は、発表者の今後の研究方針に関係する部分もあり詳しい紹介はできませんが、「なべざんまい」の活動に興味を持ってもらえれば幸いです。

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きのこなべ

 

問題提起

1952年4月28日――この日は何の日か、ご存知でしょうか。それが「日本の独立記念日だ」と言われたら、驚くのではありませんか。何を隠そう、この日はサンフランシスコ講和条約が発効し、

日本と連合国との戦争状態の終了(第1条(a))
日本国民の主権の回復(第1条(b))

がなされた日です。しかし、アメリカによる占領が終わった解放、というイメージよりも、多くの米軍基地が残り、冷戦の防波堤たる同盟国として、東アジアの前線基地としての位置づけが強化されるというその後の経過から、むしろ占領期から地続きであるというイメージの方が強いのかもしれません。

私たちは領土拡張から太平洋戦争敗北までの歴史について、多くの物語を持ち、教育システムにも組み込んできました。しかし占領と主権回復、日本国の独立と出発は、語る方法も、教える方法もほとんどないのではないでしょうか。戦後は焼け跡からの復興として、いきなり高度成長に接続されてしまうのではないでしょうか。

しかし、日本国憲法を始め、日本国の枠組みや「象徴天皇制」はまさにこの占領期で確立され、そのレジームが現在も続いているというのは否みがたい事実です。この圧倒的なインパクトに注目しようとしているのは、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムのような一部の右翼言説、永続敗戦論のような一部の左翼言説に限られる。いったい、私たちは敗北と占領をどう受け止めたのでしょうか。

集合的記憶の欠如

日本がアメリカに占領されていたこと。それを思い起こさせる史跡は、皇居に面した第一生命ビルです。ここは連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)本部として利用されました。皇居と隣接する意図は明らかでしょう。日本人に敗戦と占領を思い知らせ、天皇の権威を牽制するのが目的なのです。しかし、建てなおされたDNタワー21は占領期の記憶をとどめるものとしてはほとんど見なされていないように思います。

もちろん関心をもって調べれば、私たちは占領期がどのような時代であり、そこで何が起こったのかについて知ることができます。しかし、それは共有されていない。ある意味で、現在の日本国がいかに成立したかという建国物語が共有されていないのです。むしろ、明治維新以後の大日本帝国建国物語が、そのまま日本国建国物語として通用しているのではないでしょうか。ここには大きなねじれがあるように思います。

東京ブラックホール

というのはなかなか狙ったタイトルですが、戦後の混乱で何があったのかはまさに記憶の闇の中かもしれません。

私が最も印象に残ったのは、闇市と隠匿物資の関係です。本土決戦を期して大量に蓄えられていた物資は、アメリカ軍が上陸したときにはその7割が「失われて」いました。それらは、本来はアメリカ軍と戦う帝国臣民を支えるために使われるはずでしたが、横領され、闇市横流しされました。それによって一部の旧日本軍士官は莫大な利益を上げました。物資はあるところにはあった。だが、国民にはいきわたらず、国民のためにも使われませんでした。

もう一つは東京租界です。日本人立ち入り禁止の租界では占領軍が優雅な暮らしを送っていました。政府肝いりの占領軍用娯楽施設RAAでは、「慰安婦」をはじめとするたくさんの従業員が働いていました。しかし、占領軍がどのような生活を送っているかは厳しい報道規制のもとにありました。

占領期の混乱は力を持つ者が総取りする世界でした。そこでのし上がった者が、その後の経済成長期にも大きな力を持ち、権力を振るうことになったのです。闇市の跡地は、秋葉原、新宿、渋谷の発展のきっかけになりました。

戦後ゼロ年 東京ブラックホール

議論

占領期の記憶が抜け落ちているという直感は確かにある。しかし、語られていないことの理由を探すのは難しい。そして、語る/語らないという選択には政治性が伴うことが避けられない。

占領期はまったく語られていないわけではない。むしろ、共有されていないだけで、ダワーの『敗北を抱きしめて』のように多くの研究が存在する。こうした占領期への言及はどのような問題意識のもとになされているのか、なされてきたのか。

記憶は単に事実があったから記憶されるというものではない。思い起こしたいから記憶されるし、思い起こしたくない記憶を思い起こしたい記憶に変えたいという願望がある。こうした感情をたどる必要がある。