ナベノハウス活動記録

熊本コモンハウス「ナベノハウス(鍋乃大厦)」@KNabezanmaiの活動記録です

『シェープ・オブ・ウォーター』鑑賞会の記録

 9月29日、北熊本コモンスペース、通称「なべざんまい」で「シェープ・オブ・ウォーター」鑑賞会が敢行されました。聲の形(shape of voice)からの連想でしたが、異形の見ごたえのある映画でした。

以下は上映会の報告を兼ねつつ、『シェープ・オブ・ウォーター』の解題に私個人の感想を交えた記事となります。「なべざんまい」の活動に興味を持ってもらえれば幸いです。

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砂肝コチュジャン炒め

声を失った王女の愛

シェープ・オブ・ウォーターには確固とした骨組みがあります。それが「美女と野獣」、異形のものとの交流を描くラブストーリーです。アマゾンの奥地から捕獲され研究所に運ばれてきた「半魚人」と、声なき対話で心をつなぎ合わせる清掃婦が、迫りくる研究所警備員の追っ手を逃れて最後に結ばれるストーリーです。

このストーリーはどのような点で「美女と野獣」の変奏になっているでしょぅか。第一に、声を出せないヒロインと人間の言葉を話せない半魚人という設定です。この設定はコミュニケーションの底に横たわるノンバーバルなものの力を喚起します。第二に、ヒロインを通した視点で作品が展開されることです。恋に落ちたヒロインは、半魚人が生体解剖を受けることを知り、研究所から運び出します。そして風呂場で自分の思いを打ち明け、セックスまでする。最後は半魚人を海に逃がします。非常に行動的であり、なにより自分の欲望に正直です。対して、半魚人はあくまでヒロインのロマンスの対象であって、その心の動きが主観的に描かれることはありません。半魚人は視聴者にとってもあくまで異物でありよそ者なのです。

象徴的なものは、タイトルに現れている「水」です。水は半魚人のすみかであり、そして私たちの意識の底に横たわるものを暗示します。地下室を思わせる研究所、太陽の見えない雨降りの空、そして異形のものがうごめく水。それは不気味なものです。それは半魚人を畏怖する人間側の視点を表しています。そして懸け橋となるのはヒロインが用意するゆで卵です。「卵」は愛の始まりです。これは未知なるもの、光の当たらない暗いもの、異質なものに対する、ラブロマンスを媒介とした探求の物語なのです。

ここで相似的なのが、研究所に潜入したスパイであり同時に生物学者として半魚人に並々ならぬ好奇心を寄せるホフステトラー博士です。博士はイライザと半魚人の交流を目撃して興味をかきたれられ、自らの任務に反してまで半魚人を研究所から運び出す手助けをし、イライザに世話の仕方を教える。そして、そのためにスパイグループの同志に撃たれ、研究所の警備責任者からも拷問を受けます。身を擲って異形のものと関わろうとする人々が、この映画では善玉です。反対に、異なるものを認めず自分たちの論理に汲々とする者が悪玉として描かれています。

 

重層的なマイノリティたち

物語の設定は非常に込み入っています。それは、時代設定と登場人物たちの様々なバックグラウンドに現れています。

おそらく1960年代(警備責任者のストリックランドは10年前に朝鮮戦争に従軍したことが描かれています)、米ソ冷戦時代にライカ犬スプートニク号の打ち上げでロシアが宇宙開発を一歩リードしていた時期です。研究所は最初半魚人を宇宙飛行士にする計画でした。そして半魚人を運び込んだホフステトラー博士はソ連側のスパイです。冷戦時代の重苦しい二大陣営の対立がうす暗い画面に見事に投影されています。あと、作中で出てくるイスラエル製の時限爆弾がひっかかりました。冷戦時のイスラエルユダヤ人の立ち位置ってどうだったんでしょうか。わからん

ヒロインのイライザは、おそらく幼いころ喉元に刻まれた三筋の傷のために、声は聞こえますが発声ができません。また、映画の冒頭にイライザのオナニーのシーンがあります。目をつぶって、彼女は何を想像しているのでしょうか。それは典型的なセックスの様子ではないのだろうなという印象を与えます。

イライザは人と関わることが決して得意ではありません。興味関心が人と異なり、空気がうまく読めないタイプです。そのイライザと信頼関係をもつ二人の人物がいます。ひとりは一緒に住んでいるゲイの老絵描きジャイルズ。彼は解雇され、絵を描くものの買い手はつかず、会社に戻ることもできず、片思いのまずいパイ屋の店員からもむげにされます。ネコをたくさん飼って寂しさを紛らわせている感もあります。もうひとりは同じ清掃員の黒人女性ゼルダ。彼女は母が若くして亡くなったので兄弟姉妹がいません(というのは何かの事情の言い訳なのかもしれませんが)。親族はセーフティネットでもありますから、そうした関係に乏しい彼女は清掃員の職を得るまでに孤独で苦難の生活を強いられたかもしれません。夫に収入があるのか、今は金銭的にあまり困っていない様子です。しかし夫は自己中心的で、二人にはまったく心の交流がなく、夫は家のことをすべてゼルダに任せきりにして、小耳に挟んだ半魚人の情報を簡単にストリックランドに売り渡します。ゼルダは憤慨し、イライザに追手が迫っていることを電話で伝えます。半魚人をめぐるマイノリティ同士の強い連帯が印象的です。

 

失敗は許されない!

それでは、悪役の警備員ストリックランドはどうでしょうか。これもまた、ステレオタイプながら見事な造形がなされています。

ストリックランドは白人至上主義者で白人男性は神にもっとも似てつくられていると考えています。雷を連想させるスタンガン付き警備棒を振り回し、ペニスに触らず小便をして手を洗わずにトイレを出るのが偉いという謎理論を持っています。その自意識は強固なプライド、決して失敗は許されない、完璧な成功者の人生を歩むという信念に裏打ちされています。

ストリックランドの家にはブロンドの髪の妻と二人の子どもたち、郊外の立派なマイホーム、ティールのキャディラック。まさに60年代のアメリカンドリームそのものです。そして妻とのセックスも朝の明るい部屋で行われます。しかし、その性的嗜好には、声の出ない女を喘がせたいという闇を抱えています。完璧な明るい世界の体現者と、同時に出世したい、支配したいという暗い欲望とがみごとに張り合わされているのがストリックランドなのです。

ストリックランドは完全に打算的な性格で、研究所の警備責任者も自分のキャリアの足がかりとしか考えていません。戦争のときの捕虜よろしく、半魚人を勝手に拷問し、左手の薬指と小指をかみ切られる返り討ちにあいます。半魚人に何の価値も見出さない彼は、強硬に生体解剖を主張し上司のホイト元帥に認めさせます。それは早くこの半魚人を始末してもっと出世するためなのです。

ストリックランドはタテ社会のパーソナリティをこれでもかとばかりに体現しており、その偏執的なまでの描写は特筆に値します。中でも印象深いのは、上司ホイト元帥の言葉です。ホイト元帥は、半魚人を逃がしてしまったストリックランドに失敗は許されないと宣告します。それはdescent manに反するというのです。このときだけ、こんなに上司に尽くしてきた優秀な部下なのに、たった一度の失敗も許されないのかとストリックランドは弱味を見せます。ホイト元帥は、その泣き言を徹底的に握り潰し、ストリックランドを追い込みます。

子どものころから愛食しているアメ玉を噛み砕きながら、ストリックランドは独力で気ちがいじみた捜索を始めます。シャイニングの主人公ジャックを彷彿とさせる性格破綻者ストリックランド。しかし、それが社会的成功のためにある程度求められていることは、「CEOにはサイコパスが多い」といった言説と通底するでしょう。

これと対照的なのがホフステトラーです。彼は好奇心が強く、機転がきいて行動力があり、共感力も高い人間です。そのために、アメリカに利用される前に半魚人を殺せという命令に背き、爆弾と毒薬をイライザが半魚人を逃がすために使い、ついにソ連の同志に撃たれます。成功とは縁のない人生です。半死半生のホフステトラーをストリックランドが拷問するとき、ホフステトラーはついに口を割り、清掃員が半魚人を逃がしたことを言ってしまいます。その口もとには笑みが浮かんでいました。お前が馬鹿にしていた清掃員がお前を出しぬいたんだと最後に言ってやりたかったのです。

ジャイルズとの対比も興味深い。ジャイルズにも自己中心的な部分がありますが、一方で相手の事情を慮ることができました。だからこそ、半魚人と心を通わせたイライザの訴えに心を開き、協力を約束します。彼は憎めない性格ながら、引っ込み思案ですし共感力が高い人間でもない。だから絵に逃避(昇華)したのかもしれません。しかし、自分の猫を半魚人にかみ殺されても彼の本能だから仕方がないとあっさり許し、ついに心を通わせることに成功します。

ストリックランドのキャディラックにジャイルズが逃走用のトラックをぶつけてしまうシーンはなかなか皮肉がきいています。ジャイルズというdescent manから外れた男によって、ストリックランドはプライドに泥を塗られたのです。

 

ラストシーンのダブルミーニング

この映画は大衆受けとシネフィル好みとの、熊本の映画館事情でいけば東宝シネマズと電気館とのちょうど間をいく映画です。

この映画には、障害者、ゲイ、黒人女性というマイノリティが細かく描かれています。しかし、そこに政治的メッセージを込めるような描き方を避けています。悪役は白人男性ですが、その人種・性別の特権を打ち砕く抵抗の物語ではありません。彼はあくまで悪役としてふるまうだけです。そして、映画の骨組みはストレートなシスジェンダーラブロマンスです。性的対象が半魚人であるという特殊性はあるものの、その造形はぎりぎりでヒト男性としての魅力を保っています。半魚人は確かに異形のものなのですが、姿は人間とよく似ていて(まぶたはカエルと同じく下から閉じます)、それも筋骨隆々でスマート、鼻も高く目も大きく、視聴者が納得できるぎりぎりのイケメンラインをついてきていると思います。そこはきっちりロマンスなのです。

お姫様のキスでカエルが王子様になる(人間世界に戻って暮らす)のと反対に、半魚人のキスでイライザがエラ呼吸できるようになる(彼岸の世界へと去っていく)のも、ハッピーエンドとして納得できるぎりぎりのところを攻めています。ただ、最後にジャイルズが読み上げる詩は意味深長で、二人が海の中で生きていってくれればという想像ととることもできそうです。いずれにせよ、ここでイライザがはっきり死んでしまう展開になると、後味はだいぶ変わったでしょう。

ちょっと話がずれますが、ほしのこえ、雲の向こう 約束の場所、言葉の庭と、新海誠監督は大衆受けの難しい「喪失」をテーマにしてきました。しかし、君の名は。と天気の子ではロマンスの「成就」で物語を締めくくり、それによって興行的な成功を収めました。この二つの区分でいけば、シェープ・オブ・ウォーターはちょうどその真ん中を狙ってきたと言えるでしょう。熊本では電気館で上映されましたが、東宝シネマズで上映されなかったのが惜しまれます。