ナベノハウス活動記録

熊本コモンハウス「ナベノハウス(鍋乃大厦)」@KNabezanmaiの活動記録です

『AKIRA』鑑賞会の記録

 10月13日、台風19号の足音を遠くに聞きながら、北熊本コモンスペース、通称「なべざんまい」で2020年の東京オリンピックを予言した大友克洋の名作アニメAKIRA』鑑賞会が敢行されました。僕も一度見たことがあったのですが、冒頭からしびれる!バイクの描き方が最高ですね。

以下は鑑賞会の報告を兼ねつつ、『AKIRA』の解題に私個人の感想を交えた記事となります。「なべざんまい」の活動に興味を持ってもらえれば幸いです。

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西京鍋

熟れた果実

舞台は第三次世界大戦で壊滅した東京のあと、復興から30年がたったネオトーキョー。巨大になりすぎた都市はあらゆる面で行き詰まりをかかえています。冒頭から税制改革への反対デモ、機動隊との小競り合い、奇妙な子供の手を取って逃げるテロリスト、バイクを乗り回す不良少年たち、腐敗した行政機構の最高幹部会に、「アキラ」を信奉する新興宗教。それを覆い隠そうと2020年のオリンピックが準備されています。

AKIRAが制作された80年代は、学生運動内ゲバ日本赤軍を残して退潮し、高度経済成長を達成した日本経済がバブルに向かう爛熟期、社会主義という対抗軸の魅力が色あせ、反体制のエネルギーはスピリチュアルな方向に傾斜していたということです。「行くところまで行ってしまった」都市社会の果て、科学技術だけがどこまでも進歩し人々が寄って立つものを失っているネオトーキョーは、当時の空気を敏感にとらえたものと言えるでしょう。

ケイや竜らのテロリストグループは日本赤軍から、アニメの中ではあまり描かれませんが、ミヤコ教は創価学会からヒントを得ているようです。ミヤコ教はアキラを待望する終末論的な宗教で、覚醒したテツオのあとから教祖ミヤコは「清浄の炎よ 粗雑な街を焼き払い、我らの穢れた心を焼き尽くすがよい」とふれまわります。これは戦前の大本教の方が近い気がしますが。科学技術によって人間が本来のあり方を失っているという告発は今でこそ陳腐に響きますが、経済成長で急速に社会が変貌した当時はもっと切迫したものがあったのでしょう。

そして今から見ると異質な劇画調の作品は、ブレードランナー2001年宇宙の旅、マッドマックスといった映画から影響を受けているとのこと。映画を見ながらアニメを作っていた時代があったのですね。そしてこうした映画もAKIRAと世界観を共有している気がします。

交錯する人物関係

カネダ(アニメ中ではずっと名字で呼ばれる)とテツオは走り屋の仲間であり、共に職業訓練校で家族を失った幼いころからの知り合いです。同時に、カネダはテツオの兄貴分であり、なにかにつけて面倒をみているのですが、そのことがテツオにはだんだん疎ましくなってきます。自分にも力がある、やればできるのにカネダは俺を一人前扱いしない、要は反抗期です。しかし、テツオは得た力を復讐や支配という自分勝手な動機に使ってしまう。背伸びをしているだけなのです。この弱さをカネダも、つきあっているカオリも知っていました。カオリは最後までテツオのことを心配しますが、暴走したテツオはカオリを取り込み、押し殺してしまいます。終盤の自己がどんどん膨張して行く様子は、テツオのかりそめの強がりと内に秘めた弱さとをよく表していて、けっこうぐっときました。しかしテツオの最後は混乱と後悔で終わり、ナンバーズによって別の世界へ消されてしまいます。成長ではなく、失敗の物語なのです。

対照的に、カネダはテツオを止めようと奔走します。仲間が苦しみ暴走しているのを見過ごせないのもカネダらしいところです。ここでもう一人、重要な役割を担うのがテログループのケイです。カネダは留置所で恩を売ってケイを口説こうとしますが、グループを第一に考えているケイはまったく相手にしません。しかしナンバーズが隔離されているベビールームに潜入しテツオの情報を盗もうとするケイたちとカネダは協力し、最後はテツオの暴走に対峙する「同志」的な友情が生まれます。

もう一人、重要な登場人物が大佐です。大佐は第三次世界大戦の教訓から、「アキラ」の力をコントロールし復興したネオトーキョーを守り抜こうとする、保守的で使命感の強い軍人です。しかし、その信念と現在のネオトーキョーは乖離しています。2020年のオリンピックへ向けた準備の中で、汚職が横行し、格差は果てしなく広がり、噴出する社会矛盾をひたすら警察力で押さえつけているのがネオトーキョーの姿です。これが戦後の復興が目指した都市の姿だったのか。大佐の心には忸怩たるものがよぎりますが、それでもこの都市への愛着を捨てきれず、腐敗した最高幹部会をクーデタで押さえつけてテツオの暴走に孤軍奮闘します。しかしそこには、全てを力で解決しようとする軍人の限界もありました。

衛星兵器SOLを破壊されて万策尽きた大佐は、アキラの中身を暴露したテツオに、そこにはなにもなかったのだと告白します。そして最終的に、ナンバーズ(劇中では特にキヨコが積極的に行動します)に事態を委ねることになるのです。ここでナンバーズは、大人の言いなりになる「こども」を離れ、力を持った仲間の起こしていることに責任を感じ力を合わせて自分たちで未来を選ぼうとする実存主義的な行動をとります。

アキラ

力をもつ実験体は成長を止められ隔離され、ナンバーズと呼ばれています。「アキラ」はナンバーズの一人であり最も強い力を持っていて第三次世界大戦で東京を壊滅させた、そのため地下深くに絶対零度で隔離されている謎の存在です。ここに、繁栄するネオトーキョーのかかえる闇があります。

もちろん、これは核兵器を暗示しているでしょう。ナンバーズが持っている力は原子力の象徴です。原爆・水爆や原発事故など、それは人類にはまだコントロールできない。しかしいつかはできるようになるのだ。このような、原子力の光と闇のイメージが交錯していたのです。これを最も体現しているのが、アキラの力に見入られたマッドサイエンティスト風のドクターです。大佐はドクターの「アキラの力をもっと見てみたい」という動機を見ぬいており、あくまでコントロールをするのだと念を押しますが、テツオの覚醒のデータをとるのにのめり込むドクターはついにその力に巻き込まれ研究室ごと押しつぶされます。

原子力が過去のテクノロジーとなりつつある現在とはやや隔世の感があります。たしかに、人工知能などで同様の不安が喚起されることはありますが、IT技術のもたらすインパクトはより身近で、冷戦の象徴でもあった原子力核の傘」のそれとはかなり異なっています(現在公開中のHello WorldIT技術のもつ「力」の描き方として興味深いです)。それとは対照的に、原子力技術は「どこか遠くの」「強大で不気味」なイメージだったのでしょう。そして、それが持つものは徹底的な破壊です。テツオの暴走は、ネオトーキョーのあらゆるものを呑みこみ、ついにグレートリセットへと行きつく。描かれているのは徹底した終末です。一つの時代がここで終わるのだという予感です。

そこに「こども」のイメージを重ね合わせたのが、AKIRAの独特な世界観を形作っています。そこには、鉄人28号からエヴァンゲリオンまで、日本の行く末をにぎる力を持つのは「こども」であるという物語が伏流しています。経験が浅く、人格的にも発達途上の主人公たちの葛藤が「危機」と重ねあわされているのです。AKIRAは、ゴジラから引き継がれている戦後日本の「被爆」というテーマを、バブルに沸き戦後を忘れつつある爛熟した日本を題材に再演してみせた、まさに古典の名に恥じない映画だと思います。