ナベノハウス活動記録

熊本コモンハウス「ナベノハウス(鍋乃大厦)」@KNabezanmaiの活動記録です

『リリイ・シュシュのすべて』上映会の記録

年度末も押し迫ったある日の夜、なべざんまいで『リリイ・シュシュのすべて』鑑賞会が敢行されました。

もちろん、なべが振る舞われました。しかし、そのなべを写真に収めたものは誰もいなかったという……。

リリイ・シュシュのすべてが公開されたのは2001年。「ゼロ年代」そのものを作品化したと言いたいくらい、どこまでも砂を噛むような味わいの作品です。

カリスマ的人気を持つ歌手、リリイ・シュシュ。そのファンサイト、リリフィリアの管理人フィリアは、万引きやスリを繰り返す不良グループの下っ端でした。本人に強い動機はなく、一緒につるんでいる二人もたいした考えなくグループのボスに従っているだけで、モブ感が半端有りません。

無口で線が細く周囲に小突かれてばかりいる雄一は、リリフィリアでリリイ・シュシュへに陶酔する、ネット上の「宗教」を作っています。そこでは雰囲気に共感し合う一体感があり、何者でもない自分を何ものでもないまま受け入れる空間がある。

雄一は不良グループの下っ端であることも、教師の役割から一歩も外に出ない大人たちも、すべて諦めてただ学校の中に漂っています。万引きを詰る母の態度から、この性格は一方的に理想や感情をぶつける母と子供に無関心な父によって作り上げられた戦略的な無力感であることが窺えます。周囲とぶつからない良い子であり、長いものにまかれ続けることが当たり前になっている。

それがリリイ・シュシュへの陶酔の本質です。

そのリリフィリアに青猫がやってくる。青猫は掲示板でフィリアに最も共鳴する、何ものでもありえない解放感を理解する相手になります。

雄一はリリイ・シュシュのアルバム『呼吸』を個人的に万引きします。これは雄一がとった唯一の能動的な行動ですが、それがバレることによって先生からも、親からも、そして周囲の不良グループからもひどい目に遭い、最後は深夜に公開オナニーをさせられます。「気持ち悪いからやめろ」となじられても一人でオナニーを続ける雄一は、能動的であることの罰をかみしめる。

そしてますます、ただ『呼吸』する空気のような存在になろうとしていきます。

雄一とは反対に、入学式の答辞を読み上げた成績も運動神経も良い星野は周りに合わせるということが全くできず、ただただつっぱります。「強くなりたい」から剣道部に入り、そこでも先輩の言いなりにならず周囲から浮きます。しかし、星野も自分の中に何か動機はない。とにかく呼吸をするようにナチュラルに周りに合わせない。動機や方法がなんであれ結果は「どうとでもなる」(それが強さでもある)という突き放したものの見方が当たり前になっているわけです。

このサイコパスっぽさは、劇中で仄めかされる星野の家庭環境、会社が倒産し一家離散、母子家庭に育っているという背景から納得できる部分があります。星野の母も泊まりに来た雄一に「うちの子にならない?」と冗談を言うような、どこかずれた愛情を向けていることが窺えます。

そして、星野もまたリリイ・シュシュにはまっている。雄一にリリイ・シュシュを教えたのは星野でした。

星野はクラスを牛耳る不良犬伏を突き落とし、学校に来れなくなるほど屈辱を与え、不良のトップになりかわります。雄一は星野のグループに従い、万引きやスリをくりかえし、下っ端としていじめられる。

しかし、星野が不良グループのトップになったのはただ犬伏を追い落としたからではありません。他校の不良グループにカツアゲされた男の金を横からかすめ取り、その金で沖縄旅行にいったことによって、誰も逆らえないカリスマを手に入れていたのです。だからこそ、いじめっ子の犬伏を叩き潰すことができた。

劇中では、西表島のツアーを雄一も星野も楽しんでいるように見える。しかし、楽しさは内側からの充実感を伴ったものではない。蕩尽する楽しさであり、余った万札を海にばらまく旅です。リリイ・シュシュの歌アラベスクに似たアラグスク島を知るのは象徴的です。そこにあるのは空虚です。

旅行の後、星野は「絞め殺し植物」のように、だんだんと周囲の人間を破滅へと追いやって行きます。世界は灰色になった、とフィリアは書き込みます。星野は自らの空虚を解放し、雄一はそれに共鳴するように巻き込まれていく。

映画の後半は「女子」と「男子」の対比がなされています。星野ははぐれ者の津田の性的な弱味を握り、援交で金を稼がせる。雄一はそれを傍からみているだけです。ひそかに好意を持っていた久野を強姦させるために廃工場に誘い込むときも、後で泣きながらも手助けをする。津田は雄一に好意を持っていますが、それにはっきり気づきながらも雄一は行動を起こさない。自分の意思がなく、感情を押し殺し言いなりになる雄一に津田がいらだちをぶつけるシーンが印象的です。

その後津田は自殺し、久野は丸刈りになって登校します。罪を感じる雄一は吐いてしまいます。

星野と対極にあるのが、クラスで女子の中心にいた神崎です。神崎は、容姿が良くピアノが得意で物静かだが人気のある久野を嫌っている。「政治力」でスクールカーストの頂点に立っている自分とは正反対のありかただから鼻持ちならない。神崎はその感情をストレートに表します。動機と言動がきれいに一致しているのです。だからこそ神崎は、星野を利用して久野を追い詰めるけれども、同時に星野はやばいということを理解しています。

雄一と星野が渋谷のリリイ・シュシュのライブで再び「つながる」ことになります。星野は雄一のチケットを捨て、青りんごを渡す。それが、星野がリリフィリアの青猫である証拠でした。雄一は星野をナイフで刺殺します。虚無に溺れ続けることに耐えきれたくなったのです。雄一は最後まで弱い。その弱さが唯一の「友人」を殺して、物語は終わります。

徹底して誰も幸せにならない。誰の幸せにもならない秩序をみんなが維持している。その無味乾燥がひたすら漂う映画です。

このブログで以前レビューした『桐島、部活やめるってよ』では、皆が維持するスクールカーストの秩序が桐島の消失によって崩れていく。桐島は劇中に一度も姿を現しません。しかし、自分の取りたいものをとると決めた前田だけは桐島の影に翻弄されることなくカメラを回し続けています。

反対に、『リリイ・シュシュのすべて』ではリリイ・シュシュの影にすべてが支配されています。そして、その影にすべてが覆い尽くされて終わっていく。ゼロ年代は『リリイ・シュシュのすべて』(2001年)によって始まり、『桐島、部活やめるってよ』(2009年)によって終わりました。

今、『リリイ・シュシュのすべて』のように徹底した虚無を描くことは難しいでしょう。ゼロ年代ってこんな雰囲気だったなあと、評者も改めて思い返した次第です。

 

とはいえ。。。題材に使われているいじめや体育会系の絞りや援助交際は「中学生のリアル」ではなくただの社会問題で、今の政治的感覚では作品として成立しないだろうと思います。ポータブルのCDプレイヤーもそうですが、こうした感覚もこの映画の古さを思わせるところです。