ナベノハウス活動記録

熊本コモンハウス「ナベノハウス(鍋乃大厦)」@KNabezanmaiの活動記録です

さよならすべてのエヴァンゲリオン

ナベノハウスの読書会、なんと二週続けてエヴァンゲリオンを語る会をやってしまいました。

正直、語る会の報告を自分が書くのは気が引けるのですが、せっかくいろいろ話したので何か痕跡を残しておこうと思います。

どうしてシンエヴァを作ったのか

話の前提として、95~96年のテレビシリーズ、97年の旧劇場版(EoE, 夏エヴァ)、2007年から始まった新劇場版、という流れがあります。僕はアニメ・ゲーム・マンガ禁止という家庭に育ち、中学生のとき放課後の教室で友達と「こっそり」観たのが旧劇場版だったので、エヴァにはかなり思い入れのある方だと思います。

この歴史をふりかえると、25年という月日もさることながら、2007年以降の展開はけっこう謎ではないでしょうか。エヴァの新劇場版を作るきっかけは、僕はよく知りませんが、カラーの仕事が立ち消えになってしまったのでエヴァンゲリオン(アニメ、旧劇場版)のリメイクをすることにした、という穴埋め的な経緯があるらしいです。

 90年代のエヴァンゲリオンは劇場版(Air/まごころ)で「終わっている」、そして庵野さんは式日を撮り、実写に向かいます。僕は旧劇場版でエヴァはきちんと完結したと思うので、どうしてまたリメイクしているんだろうというのは冷めた目で見ていました。終わったと思ったけど庵野さんの中では終わっていなかったのか、なんでこんなこと始めてしまったのか、そう簡単に90年代のエヴァンゲリオンと勝負できるのか?

これにたいする答えは実務的なもので、カラーを維持し前に進めるためにエヴァの力を借りたのだと思います。しかし、エヴァの力場にのみ込まれてしまった。ファンダムの厚さの前に引っ込みがつかなくなってしまった。これがエヴァの呪縛だと思います。エヴァの呪縛は2007年から始まっている、というのが僕の見方です。

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旧/Qの先に何があるのか

新劇場版を作り始めた庵野さんはかなり後悔したし、だんだん苦しくなっていったのでしょう。Qでなぜ破を全否定する内容になったのか、3.11の影響という人もいるけど僕は少し違うと思います。庵野さんは旧劇場版でファンに「気持ちいいの?」と説教してみせたように、自分のやっていること、作っているものに対する自傷的・自己破壊的な疚しさを持っている。これはプロフェッショナル庵野秀明スペシャルを観たときに感じました。

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破はレイがシンジとゲンドウをつなごうとし、シンジが最後にレイを救うという主体性を獲得し、思い切りの良い形で終わりました。でも、それで興奮するファンダムに対し庵野さんはすごく否定的な気持ちになったのではないか。「エヴァに乗るな」「レイは救えなかった」「サードインパクトの贖罪が必要」などなど、徹底的なアンチテーゼを突きつけ、そして旧劇場版のときと同じく庵野さんはシン・ゴジラを撮り、実写へと向かいます。

しかし、新劇場版はまだ終わっていない。ここで放り投げることもできないわけではなかったかもしれませんが、庵野さんはもう一度エヴァンゲリオンを完結させる道を選びました。これはエヴァンゲリオンの二度目の終劇であると同時に、ある意味で、旧劇場版の自己否定の先があるわけです。

そしてエンタメが答えだった

庵野さんは、大衆をどこかで下に見ていたと思います。適度に困難に取り組みつつも分かりやすく感動できるハッピーエンドを求める、キャラを作品の文脈から外して物的に性的に消費する、そしてそうした「気持ちいい」ことに依存して逃避を繰り返す。しかもそうした大衆の上に消費社会が成立し、アニメ産業が成り立っているわけです。

ダースレイダーさんがQアンノの言っていますが、旧劇場版のカルト的な人気の影には、大衆に対する距離のパトスが確実に存在しました。ジャーゴンの嵐は早熟な知識欲を満たし、性描写の露悪さは思春期の戸惑いに一つの表現を与えていました。旧劇場版は大衆を敵に回すことで、個人の熱狂的なフェティシズムと結びついたはずです。

こうしたカルト的な人気を断ち切って大衆へ歩み寄ることを決めたのが、シン・エヴァンゲリオンだった。すごく乱暴なくくり方ですが、90年代の文脈を全部無視すれば、天気の子と同じジャンルの作品に仕上がっていると思います。

ボーイ・ミーツ・ガール、勧善懲悪、そして現代的なテーマ(家父長的ジェンダーからの脱却/気候変動/現実と虚構の交錯)が織り交ぜられた名作としてシン・エヴァンゲリオンを受容した人は多かったのではないでしょうか。

さらに思い切って言うなら、荒廃した近未来、家父長的な不死身の支配者、水と緑と人々を取り戻すために立ち上がる女性たち、武装した乗り物同士の激突・・・中盤はあたかもアクション映画のような展開が織り込まれてすらいるのです。

90年代のエヴァンゲリオンは客層として、コアなオタク男性を第一に念頭に置いていたと思います。しかし2000年代のエヴァンゲリオンはもっとさまざまなバックグラウンドを持った、若い世代から年配の世代まで、そして女性までを念頭に置いた作品にする必要がありました。この流れは、ほしのこえからスタートして天気の子に至る新海さんと通底するものがあります。

庵野さんと「同類」のオタク男性には刺さった旧劇場版の自己否定も新劇場版の客層は鼻白むだけでしょう。そしてまた、2000年代のエヴァンゲリオンにはオタク男性以外の広い客層からの批判が届けられたはずです。ジェンダー描写の刷新、生活描写の取り入れ、暴力ではなく対話による解決を図り、子どもを持つ大人の姿を描くこと、これらをシン・エヴァンゲリオンは愚直に実行していきます。

カラーの経営者としての責任、アニメ制作の仕組みに乗っかるのではなくそれを支える側に回った者に要求される振舞い、それが大衆への歩み寄りでした。シン・エヴァンゲリオンシン・ゴジラと同じように、大衆娯楽として、エンタメとして、90年代のエヴァンゲリオンを生まれ変わらせることに成功した。東さんがそれを手放しでたたえていたのが僕には印象的でした。

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