ナベノハウス活動記録

熊本コモンハウス「ナベノハウス(鍋乃大厦)」@KNabezanmaiの活動記録です

無限列車編とは何だったのか

鬼滅の刃無限列車編(以下、本作)が歴代興行収入一位を達成して社会現象になっている。ということは、この作品の内容を多くの人が共有している。だから作品について論じるときに比較的広い読者を想定できる。批評冥利に尽きると言わなければならない。
もう公開からずいぶんたったので、ネタバレを云々する時期でもないだろう。それに本作は原作の漫画の筋を忠実に追っているから、あらすじを把握したうえで映画を観た人も多かったはずだ。本論も、行論でネタバレを注意することはしない。

 

魘夢vs炭治郎

映画は、魘夢と戦う前編と、猗窩座と戦う後編とに分けることができる。まず魘夢との戦いから振り返っていこう。

夢は願望充足である

魘夢は人間に夢を見させて精神を破壊する、心理戦を行う鬼である。
魘夢は決まって、術をかける人間に「よい夢」を見させる。それは最後に絶望に顔をゆがめて死ぬところを見たいからであって、人道的な理由ではないのだが、魘夢の術のかけ方は夢の本質を射ている。
フロイトが指摘したように、夢とは願望充足である
例えば喉が渇いていると夢に水が出てくるし、おねしょをする夢ではたいていトイレが出てくる。それは、渇きや尿意によって夢から覚めるのを、夢を見る私自身が防ごうとして、水を飲ませたりトイレに行かせたりするからだと考えられる。魘夢は、人が「よい夢」を見たいという欲望はものすごく強いと語っているが、まさにその通りである。
それほど夢を見続けようとするのに、なぜ私たちは夢から覚めることができるのか?
これはフロイト的にも一つの問題であった。

快楽原則と現実原則から、生の欲動と死の欲動

いつまでも夢を見ていようとする私たちの本性を快楽原則と呼ぶとすれば、私たちが夢から覚めることができるのはもう一つの原則、現実原則に従うからである。
夢の中にいるだけではやがて餓死してしまうし、外の危険から無防備になってしまう。私たちは起きて活動しなければならない。生きるための合理性から外れて快楽原則を追求しないよう、それを断念したり延期したりする必要がある。
こうして現実原則が快楽原則に押し勝つとき、私たちはしぶしぶ目を覚ますのである。
だが、フロイトはもう一つの説明も用意していた。
快楽原則では、私たちが悪夢を見る理由が説明できない。なぜ人間は自己破壊的な夢をわざわざ見るのだろうか。それは、私たちが自己破壊の欲求を持っているからである。快楽原則と現実原則は、私たちが生きようとするからこそ存在している。だがこうした生の欲動、自己保存の欲動と根本的に対立する、死の欲動、自己破壊の欲動が人間にはある。
生の欲動が死の欲動に打ち勝つとき、私たちは命からがら目を覚ますのである。

魘夢の夢理論

魘夢はこの二つの理論を巧みに使い分けている。
第一段階の攻撃では、快楽原則を現実原則に優越させることで、最終的に夢を見せた人間を廃人にしてしまう。その人間は現実原則を失い、どこまでも快楽に浸ろうとするということだろう。あるいは、快楽原則だけの人間は無防備であり、現実原則とのバランスがとれた「覚醒した」人間の狡猾な侵襲によって傷つけられるということである。
ここで、炭治郎の見た夢について考えていこう。
炭治郎がかつての円満な家族を欲望していることは明らかである。そこでは兄弟全員が兄のことを敬慕し、母は惜しみない愛情を注いでくれる。情緒的な満足の全てを与えてくれる「家族」の原風景である。この満足は、水面に映った現実原則の忠告の声でさえ破ることができない。
しかし、全てを与えてくれる母子関係に否を突きつける「父」が介入し、この夢は終わりを告げる。この否定は快楽原則に真っ向から反対する、「こうあらねばならない」という規範である。炭治郎は生活者から戦士に、生活者としての自分を殺すことで立ち戻る。この否定は単なる夢の断念や延期ではなく、快楽そのものの否定であり、だからこそ魘夢はその「胆力」に驚いたのである。
魘夢は炭治郎に追い詰められ、第二段階の攻撃を行う。
すなわち自己破壊的な夢、家族が生き残った自分を責める罪悪感に覆い尽くされた悪夢を見せる。もちろん家族が死んだのは炭治郎のせいではない。それどころか炭治郎もまた被害者であるはずなのに、炭治郎は生き残ったことによる罪悪感に責めさいなまれてしまう。
第二段階の攻撃は、死の欲動を生の欲動に優越させることで人間を精神ごと破壊する、魘夢の血鬼術の真骨頂と言えよう。
これは典型的なトラウマ(精神的外傷,PTSD)である。
手や足の外傷は腫れ痛み血が流れる。それと同様に精神の「内傷」であっても、それは身体の不調や麻痺、自傷や自分の安全を省みない行為といった「外傷」として何度でも現れる。炭治郎が戦士でなければならないのは、家族を殺された経験が「外傷」として現れたからだ。だからこそ炭治郎は夢で自分を躊躇なく殺せたのだと思う。
魘夢は第一の攻撃で罪悪感をしっかり醸成させておいて、第二の攻撃でそれを全面的に展開してみせた。
ここには「押してダメなら引いてみろ」「よい夢が効かないならわるい夢で」という以上のものがある。魘夢は、炭治郎の意識の底には家族への罪悪感が、そしてその悪夢の中にのみ込まれたいという死の欲動が渦巻いていることを見抜いていた。だが、今度は逆に円満な家族のイメージが対置される(第二の夢では首を切っていないことに注意してほしい)。
炭治郎は罪悪感に打ち勝ち、家族は自分を全面的に肯定しているという確信とともに目覚めるのである。

炭治郎はトラウマを克服したか?

あまりにもあっけなく話が進んでしまうのだが、ここで炭治郎は驚嘆すべき精神的成長を遂げていると言わなければならない。隊士としての自分から逃避すべく夢見た円満な家族の原風景を捨て去りながら、自分だけ生き残ったことへの罪悪感を乗り越えるためにその原風景をもう一度積極的に選び取るのだから。
ただし、この評価はミスリーディングのきらいもある。そもそも炭治郎は家族への罪悪感に葛藤しておらず、隊士になったのは鬼への純粋な復讐心と考えたほうがすっきりするかもしれない。魘夢が見せた第二の攻撃に、炭治郎は「家族を侮辱するな」と応じている。これは、夢を通して不快な言葉を浴びせられたことに立腹しただけのように見える。もし第二の攻撃が炭治郎の罪悪感とぴったり重なるものだったら、もっと狼狽する演出があってもよいだろう。炭治郎にとって、家族が、父が自らを「役立たず」と評することはシンプルに有りえないことだった。
しかし、このような父子関係を誰もがもつとは限らない。

杏寿郎の夢:二つの問い

それでは、本作のメインキャストである煉獄杏寿郎へと進もう。
杏寿郎は汽車で炭治郎たちと会ったときから「面倒見のいい兄貴分」として振る舞おうとする。魘夢の見せた夢でその理由が判明する。父が鬼と戦う情熱を失い酒におぼれるようになって久しく、杏寿郎は幼い弟に対してかつて父が為していた指導者・庇護者の人格を演じなければならなかった。そして炭治郎たちに対しても、基本的に弟に対するのと同じように接していたのだ。
ところで、杏寿郎の夢は炭治郎や善逸や伊之助の夢と異質である。そこには二つの問いがある。
第一に、魘夢が本当に「よい夢」を見せていたなら、杏寿郎の父は炎柱の報告を喜んで受け、酒にも溺れていなかったはずではないか。どうして弟が悲壮な涙にくれるような夢を杏寿郎はわざわざ見たのだろうか。
第二に、炭治郎は父の声によって覚醒条件に気づいた。杏寿郎は何によって覚醒条件に気づいたのか。二つの可能性がある。一つは父が炎柱だった頃の人格を取り戻すことによって。一つは母の声によって、である。

母の呪縛

炭治郎が父の意思を心身の底で受け継いでいた者であるのと対照的に、杏寿郎は母の意思を心身の底で受け継いでいた者であった。炭治郎の父も杏寿郎の母もともに体が弱く幼い時に死去し、それゆえにこそ、二人の人格の核心となっている。
「受け継ぐ」と言えば聞こえがいいが、それは鬼殺の戦士として生きよという「呪縛」である。
炭治郎は父亡き後も幸福な家族の中で、鬼に惨殺されるまで愛に満ちた生活を送ることができた。だからこそ家族との断絶を、父から受け継いだ戦士の義務とまっすぐにつなげることができた。対して杏寿郎は父から戦士の義務を否定された。それでも戦士として生きることを選んだ杏寿郎からは父の存在が消え、母の告げた呪縛が絶対化された。
炎の呼吸をどれだけ極めても日の呼吸に及ばないことを悟った父は指導者・庇護者であることを放棄する。そして実際に杏寿郎は猗窩座に殺され、炭治郎は猗窩座と無惨に勝つのだから、この見立ては正しかった。その現実をあるがままに受け止めたのはある意味で父、槇寿郎の誠実さであった。しかしそれは煉獄家に父の不在を招いたのである。
第一の問いは、父が再び指導者・庇護者として振る舞うことを杏寿郎が一切望んでいないことを示している。むしろ弟に対して、後輩に対して、指導者・庇護者たることが杏寿郎の一番の望みであることを示している。それゆえ第二の問いへの答えは、母の声によって覚醒条件に気づいた、となる。では、母はいったいいかなる声によって杏寿郎に快楽原則からの自決を促したのか。その声は作中に描かれていないが、あまりに自明で描くまでもなかったのだ。
杏寿郎は眠っている間にさえ精神の核への攻撃に気づいて反応している。無防備のまま眠り続けてはいけないという現実原則が快楽原則に押し勝ち、覚醒条件にも合理的に気が付いたはずである。
現実原則は快楽原則と根本的には対立しない。夢で弟を指導したように、汽車の中で杏寿郎は炭治郎たちを指導する。杏寿郎にとっては、現実と夢との間にほとんど違いがない。母の声は、いまなすべきは弟の指導ではなく炭治郎たちの指導であることを諭せばよいだけだったであろう。

猗窩座vs杏寿郎

それでは猗窩座との戦いに進むことにしよう。猗窩座は極端に弱者を嫌い、自らと戦い合える強者だけを求める。これはこれで考察に値するが、本稿では深入りしない。猗窩座は杏寿郎の強さにほれ込み、ともに鬼となって高みを目指そうと提案する。

正義を越えた対話へ!

杏寿郎は猗窩座の「弱者嫌い」に反論する。第一に、「強さ」は肉体的なものだけに使う表現ではない。第二に、猗窩座が殺そうとした炭治郎は弱者ではないから、侮辱してはならない。
この反論に関係して、本題からそれるが論じておきたいことがある。
汽車の乗客や乗務員は肉体的にだけでなく精神的にも弱い。恐怖にすくんで逃げ惑うか、自由意思を働かせようとしても鬼に利用されるのがせいぜいである。そして鬼の手先になったとしても、鬼殺隊は乗客や乗務員に寛大である。これは炭治郎にとくに強く表れており、自らに重傷を負わせた運転手は「汽車に足を潰されたから十分罰を受けた」と言うシーンがある。だが、罰を受けたと言えるためには、運転手は自分の意思によって炭治郎を刺し、運転手の職務を放棄して乗客全員を危険にさらしたことを認め、さらに、それを誤りだったと認める必要がある。
どう見ても運転手と車掌は魘夢と共謀しており、職務を考えれば魘夢以上に罪が重いとさえいえる。
鬼殺隊とその関係者以外の人間は、本作における公認の弱者であり(そのちょうど反対に位置するのが階級の低い鬼たちである)、鬼殺隊の営為を正当化し鬼の悪行を強調する以上の役割は期待されていない。だからこそ「乗客を誰も殺さない」ことが鬼殺隊にとって至上命題なのである。もちろん汽車の中にはスリがいただろうし、女性を抑圧する家父長、弱者を足蹴にする成金、労働者を窮乏させる資本家はほぼ確実に乗っていたはずだ。しかしそのような多様性も鬼の醜悪さの前には霞んでしまう。
漂白された弱者が一方的な共感を受け、黒塗りされた鬼という悪には一方的な敵視が向けられる。
かくのごとく膨れ上がった正義の危険性は多くの論者が指摘している。ここで私が強調したいのは、だからこそその壁を乗り越えて対話を試みる存在には意義があるということである。私には、鬼殺隊の「弱者好き」はバランスを欠いており、それと対立する猗窩座の主張にも魅力があるように思われる。それは強者を、弱者を介さずストレートに評価する思想だからである。もちろんここにも、優生思想をはじめとする多くの危険がある。

自己犠牲か、自己陶酔か

さて、無限列車の中と同様に杏寿郎は炭治郎たちの指導者・庇護者として猗窩座と戦う。それに対して猗窩座は杏寿郎との戦闘パフォーマンスを誇るために戦う。これは利他主義と利己主義の対立であると宮台真司は整理している。杏寿郎と猗窩座の戦いのクライマックスが杏寿郎の自己犠牲であることは多くの視聴者が同意するだろう。また、炭治郎は杏寿郎が乗客・乗員と自分たち後輩を一人も死なせなかったことを、すなわち利他主義を貫徹したことを理由に、猗窩座への勝利を宣言している。
しかし、自己犠牲は決して透明な概念ではない
短期的に他人を利することで長期的に自分を利する(情けは人のためならず)場合、一見した利他主義は利己主義と矛盾せず、むしろ一見した利己主義の方が結果的に利己主義と矛盾してしまうことが考えられる。あるいは、もし自己犠牲から最高の快を得る者がいたら、この人物を利他主義者と呼ぶべきだろうか。それとも利己主義者と呼ぶべきだろうか。
単純に杏寿郎を倒したことを以て猗窩座の勝ちとは言えないにしても、炭治郎の勝利宣言には疑問が残る。
本当に一人も死なせないつもりなら、杏寿郎も死なせてはいけなかったはずだ。
そして杏寿郎にはあきらかに自己犠牲に陶酔する危険が見受けられる。なぜなら、弱者は一人も殺させないが強者は死んでも責務を果たすという極端なエリート主義を母から訓示され、母の死と父の教育放棄とによってそれが絶対化され、生き方の核心となってしまっているからだ。猗窩座は杏寿郎と戦う自分に陶酔しているが、杏寿郎も全力を尽くした果てに猗窩座に殺される自分に陶酔している。ただ、その陶酔があまりにも純粋なために、猗窩座ほど嫌味がないのである。
杏寿郎が死ぬべきだったと言う者はもちろんいないだろうが、鬼と人との差が埋められない以上、杏寿郎はいずれ死ぬほかなかったともいえる。たまたま下手人が猗窩座だっただけで、死亡フラグは無限列車に乗り込む前から立っていたのだ。

鬼になれ、杏寿郎

私は、煉獄杏寿郎は鬼になるべきだったと考えている。
最後に渾身の一撃を繰り出し、猗窩座を朝日の前に食い止めながら鬼になる。それは人間を越え(人間のままではたいしたものにはなれない)、鬼の力を手にしてでも猗窩座に勝つためにそうするのである。そして猗窩座と組み合ったまま朝日に消えていくという終わり方である。もちろんそこで杏寿郎の物語は終わるが、杏寿郎の精神の広がりを感じさせる終わり方である。
猗窩座の誘いは、杏寿郎が母の呪縛、さらには父の呪縛からも脱するチャンスだった。
しかし結局、杏寿郎は母に抱かれながらその祝福を受けて死ぬことになる。父に残した言葉は「体をいたわってほしい」という優しい戦力外通告であり、再び鬼と戦うことへの期待を込めたものではなかった。
杏寿郎が死んだあと、その期待に応えるにはまだ「分厚い壁がある」と嘆く炭治郎に伊之助は「生きていかなきゃならねえ」と切り返す。期待に応えられるかどうかはどうでもいい、期待に応えられると信じて強くなる努力をするしかないという意味である。
ここには、強いものとして生まれ弱いものを助けるために死んだ杏寿郎との決定的な違いがある。
伊之助たちはこのようなエリート主義を内面化していないのだ。猪に育てられてでも生きることを選んだ伊之助は、死もいとわず母の言葉に従う杏寿郎とは別の心づもりであることを示唆させる。

 

鬼滅の刃 7 (ジャンプコミックスDIGITAL)

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 written by 雪原まりも