ナベノハウス活動記録

熊本コモンハウス「ナベノハウス(鍋乃大厦)」@KNabezanmaiの活動記録です

クリスマス企画『基督抹殺論』読書会の記録

予は今拘へられて東京監獄の一室に在り――

基督抹殺論をどう受け止めるか

大逆事件で死刑となった幸徳秋水の遺稿をご存知でしょうか。その名も『基督抹殺論』。秋水と言えば有名な社会主義者で、中江兆民に師事し、『帝国主義』や『社会主義神髄』などを著したジャーナリストです。それが一体、死を覚悟した獄中で何を思ってキリスト教に喧嘩を吹っ掛けたのか。『基督抹殺論』の際物ぶりは論壇を当惑させ、今に至るまでその評価は宙づりのままと言えるでしょう。

行論は力強く進みます。キリストは聖書に証立てられた史的存在なのか。否、聖書に書かれていることはすべて虚偽であり、キリストなる者は存在しない。生殖器と太陽の信仰に端を発し、ギリシア哲学を取り入れて抽象化された古代宗教が、その教会権力の確立に伴って創造した「キャラクター」がキリストなのだ。こうして誕生の秘密を暴露し権威を失墜させることが「抹殺」の本義です。

史的唯物論は、宗教を含む社会制度は経済という下部構造に規定された上部構造だと考えます。宗教を理解するには、教義そのものではなく、その教義がどのような利害関係のもとに成立しているのかを問えばよい。下部構造を明らかにすれば、宗教だろうが国家だろうがその「下心」はろくでもないものだ。こうした、宗教に対する「センスのない」理解が本書には横溢しています。

秋水の意図を測りかねた論壇がひねり出した一つの解釈が、本書は天皇制批判の隠喩だ、というものです。基督抹殺論と同じ分析方法は、明治新政府によって急造された近代天皇制にこそよく当てはまるでしょう。歴史上の人物でない神武天皇の即位をもって「皇紀」を定め、天皇を神格化し御真影に跪拝させ、国体明徴声明で天皇こそ唯一の主権と垂訓する、まさにその天皇制への「大逆」として刑死した秋水は、キリストに仮託して天皇の社会的抹殺を目論んだ。もちろん、天皇を示す一文一句たりとも本書の中に書き込まれてはいません。しかし、獄中の秋水が天皇制のことを考えない日はなかったでしょう。その周到な排除にこそ、描かれなかった天皇制の輪郭が跡付けられているというわけです。

そのような読み方ができることは否定しません。しかし、本書からくみ取れるのはそうしたピンポイントの批判ではなく、秋水の世界観とするべきでしょう。そこにあるのは、実証科学で蒙を啓き不合理な前近代的遺物を排して来るべき社会を建設しようという、ナイーヴな近代思想に他なりません。その実現のためには、人々がキリスト教のふりまく言説を批判し一蹴するリテラシーを備えていることが必要条件だと秋水は考えたのだと思います。

基督抹殺論には何が書いてあるか

秋水の主張は、よくこれだけの資料を集めたものだと感嘆しますが、全体的に牽強付会で、キリスト教とは何かを論じる箇所はほとんどこじつけのとんでも理論になっています。少しだけ、内容の批判的な紹介をしておきましょう。

聖書信ずべき乎

「聖書信ずべき乎」では、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる四福音書が伝記としてどこまで信用できるかが問われています。それらが信用に値しないとされる根拠は、

・四福音書が記載する出来事を照らし合わせると矛盾が多い

・キリストがいつ生まれ、いつ死んだのかがわからない(クリスマスは、冬至にあわせてキリストの生誕を祝う日として、キリスト教を国教化した古代ローマで成立しました)

福音書はキリストの死後100年以上たった2世紀ごろ成立した

・多くの経典から都合のいいものが選別された

・聖書の内容は教会の利益のために何度も改作された

といったもので、これらはおおむね事実と言っていいと思います。ただ、これは「信用できない」というだけで、聖書に事実の記載はなくすべて創作であると結論付けることはできないでしょう。また、秋水の論述はすべて研究者の書物や百科事典からの引用に基づいていて、自身で聖書を読解し検討したわけではないことにも注意が必要です。

聖書以外の証跡

「聖書以外の証跡」では、ギリシャ、ローマの歴史家がキリストに言及していないこと、ユダヤ人歴史家ヨセフスの記述も簡素であり、キリストの言行の記録を聖書以外の資料から跡付けることができないことを指摘しています。

ここまでの秋水の行論は、結論を盛っているところを除けば、それなりに妥当な議論と言えるでしょう。

基督教の起源

「基督教の起源」では、神が人を作るのではなく人が神を作るのだ、と切り出し、宗教とはいきなり飛びぬけた個人の霊感によって創始されるのではなく、既存の様々な文化伝統を取り込んで形成されるのだ、と続きます。しかし、キリスト教の由来として秋水が提示するのは、「一は即ち太陽崇拝、他は即ち生殖器崇拝」だというのです。特に、十字架が男性生殖器をかたどったものであると述べるくだりは開いた口が塞がらないというか、秋水の「センス」が存分に発揮されているようです。

後半では、キリストと同時代に活躍したユダヤ人哲学者フィロンの影響を指摘しています。フィロンプラトン哲学と旧約聖書を調和させようと努力し、教義の解釈にロゴスやイデアの概念を導入しました。これがユダヤ教よりも初期キリスト教徒に受け入れられ、霊魂不滅や唯一神といった発想を生んだ、という説もあるようです。だからキリスト教の教義にイエス・キリスト個人に由来するオリジナリティはない、というのが秋水の主張です。

秋水はこの章を「真に基督教の起源の由来とその信仰の何物なるかを解しなば、彼等の大半は其信仰を失墜すべし」と結んでいます。まさに啓蒙思想の権化というか、正しい知識を得れば正しい結論に達するという信念が秋水の社会運動を支えていたのだと思わされます。

初期基督教の道徳

「初期基督教の道徳」では、その現状肯定的な性格が糾弾されます。「新訳書の教訓が、如何に霊に偏して肉を軽んじ、望みを死後に懸けて現在の事に冷淡ならしめ、無抵抗を美徳とし、貧窮を幸福とし、神の奴隷たるを誇りて、人類の勇気と自尊心を阻喪せしむるか」と言って、支配階級に都合のいい道徳を捨てよと諭すところには、秋水の動機の一端が垣間見えます。もちろんキリスト教には支配権力への抵抗の歴史もあり、秋水の見方は一面的に過ぎると思えますが。

その後は、キリスト教道徳にも評価できるところはあるが、それは仏教やゾロアスター教孔子孟子老荘思想でも説くところであり、キリスト教だけが特段道徳的に秀でているわけではない、そうした道徳がキリスト教を特別なものとするわけではない、と言います。ここまではご愛敬ですが、返す刀で初期キリスト教団がいかに不道徳で尊敬に値しないかを縷々書き綴るという、個人的には大変鼻白むパートが続きます。

基督教の実体――クリスマスとは何か

「基督教の実体」では、多くの知識人が、処女懐胎という聖書の神話的記述を事実と認めていない(当然ですが)として、文献を列挙しています。

ここからが面白いのですが、それではなぜ12月25日にキリストの生誕を祝うのか。そもそも、ヨーロッパ各地には、夏至冬至を祝うお祭りが多数存在します。そして、冬至は太陽の復活が始まる日であり、占星術では処女宮に当たる(と秋水は言いますが、乙女座を太陽が通るのは8月末~9月にかけてです)ので、キリストの生誕を祝うのに適切だというのです。これは、キリスト教が太陽信仰に由来する傍証だと秋水は論じています。

クリスマスがキリスト教の中でも微妙な位置づけであることは、レヴィストロースの『火あぶりにされたサンタクロース』で活写されています。これは、第二次世界大戦アメリカ文化の流入で人気となったサンタクロースのイコンにカトリックの司祭が反発し、「異教のもの」であるサンタクロース人形を断罪し火あぶりにした(そして世間から轟轟たる批判を浴びた)、フランスで実際に起こった事件を題材に、クリスマス祭の文化人類学的起源を考察する論文です。

www.kadokawa.co.jp

結論

こうして、イエス・キリストは史的人物ではなく、その教義に独創性はなく、その起源は古代神話に求められる、と結論されます。

基督教徒が基督を以て史的人物となし、其伝記を以て史的事実となすは、迷妄なり、虚偽なり。迷妄は進歩を妨げ、虚偽は世道を害す、断じてこれを許すべからず。即ち彼が仮面を奪い、扮粧を剥ぎ、其真相事実を暴露し、之を世界歴史の上より抹殺し去るとを宣言す。

ちなみに、イエスという名前はヘブライ語のイェホシュア(神は救い)がギリシャ語に転写され日本に伝わる過程で変化したものですが、秋水はこれを固有名ではなく抽象的な救世主を意味する単語だ、と考えています。実際には、イェホシュアは当時よくある名前で、例えばヨセフスの『ユダヤ戦記』には20人くらいのイェホシュアが登場するようです。秋水が否定する個人としてのイエス・キリスト(史的イエス)についても研究の蓄積はあり、『基督抹殺論』はそれを意図的に無視していると言ってよいでしょう。

最後に読書案内です。

基督抹殺論はGoogle Booksで読めます。

基督抹殺論 - 幸徳秋水 - Google ブックス

史的イエスについてはこちら↓

近代聖書学(高等批評)についてはこちら↓

それでは、よき年越しを!