ナベノハウス活動記録

熊本コモンハウス「ナベノハウス(鍋乃大厦)」@KNabezanmaiの活動記録です

「実家」の社会的構築

この記事は、2023年サークルクラッシュ同好会アドベントカレンダー2日目の記事です。

adventar.org

12月から、私は熊本を離れ、東京で仕事を始めた。

東京は恐ろしい都市だ。前日にインフルの予防接種を受けたのに、当日は体調不良で無理を押しての出勤。朝の通勤は満員電車。そしてどこを見回しても人、人、人。1日で東京が嫌いになってしまった。

私は今、このブログを「実家」であるナベノハウスで書いている。

私はずっと実家が嫌いだった。大学に残ることを断念した私を勝手に都合よく解釈した、両親が作り上げた実家が嫌いだった。実家にいても自分が受け入れられていると感じることはないし、両親の存在はいつも自分の軛に感じられる。この環境によく19年もいたものだ。

2017年、大学を脱出した私をある会社が雇ってくれた。その赴任先が熊本だった。本社勤務の時はまだ同期とつるめて楽しかったが、熊本では孤独だった。近くにあった乗馬クラブに行ってみたり、副業で家庭教師を始めたりしてみたが、どちらもうまくいかなかった。車を買ったことで貯金が底をつき、月末はサラ金でクレジットカードの引き落としをしのいでいた。

2018年になって少しずつ交友関係が広がり始め、定期的に読書会をするメンバーができた。読書会や映画の鑑賞会の場所を確保するという話になり、その場の勢いでアパートの一室を借りた。最初は「ノンポリ荘」にする予定だったが、直前に観ていたアニメ「さらざんまい」にあやかって「なべざんまい」という名前になった。

2019年は香港の揺れた年だった。私もチョンキンマンション(重慶大厦)に泊まり、『チョンキンマンションのボスは知っている』の読書会をした。そして新型コロナのパンデミックが始まり、10万円の給付金を受け取ったので、それを敷金に充てて契約したのが「ナベノハウス」だった。「ナベノ」は鍋と安倍をかけている。

そういうわけで、確かにナベノハウスには思い入れがある。でも、それは「実家」なのだろうか。気持ちの上では、両親のいる実家が仮の家であり、手作りのシェアハウスが実の家だとしても、不安定なものは明らかにナベノハウスだ。今後利用者がいなくなれば、私がセカンドハウスとして維持するのも限界があるだろう。

ナベノハウスが「実家」だというのは、東京に就職が決まって熊本を離れる、この瞬間の真実かもしれない。けれど、ナベノハウスは構築された実家であって血統書付きの実家ではない。こんなことを言うと、家族社会学あたりから実家概念が近代化の過程でいかに構築されたかを説教されそうだけど、私が言いたいことはそういうことではない。

大学からも実家からも切り離された個人が、今いる場所を「実家」として構築するというのがナベノハウスの隠れたテーマだったのだ。そもそも、ナベノハウスは職場でも家族でもないサードプレイスとして構想したものだった。そしてもちろん、ナベノハウスはサードプレイスとして機能し、近くの熊本大学を中心に人間関係が広がった。

しかし、根無し草の個人がサードプレイスに自身の落ち着く場所を見いだせるなら、それは家族でも職場でもない、構築された「実家」というべきだ。私は大学生のとき、どんどんシェアハウスを作る運動に加わっていたが、それは大学から失われた学生の居場所を確保するためだった。しかし、社会人になってより切実に必要だったのは「実家」を構築することだった。

そういうわけで、東京に行ってもしばらくは、私の魂はナベノハウスにあるでしょう。