ナベノハウス活動記録

熊本コモンハウス「ナベノハウス(鍋乃大厦)」@KNabezanmaiの活動記録です

共同幻想論を直球で

 

あなたが吉本隆明をどこかで耳にしたことがあるとしたら、それは『共同幻想論』の著者としてではないでしょうか?

吉本隆明の代表作にして、非常に魅力的な表題を持つこの本。会社とか社会とか、そういうのは共同幻想、そう、「幻想」なんだ!という意味深な喝破に読めなくもないこの表題に惹かれて本書を手に取った方も多いのではないでしょうか。

ある人は目次を眺めながらそっとこの本を棚に戻したかもしれません。

ある人は序で流れについていけずに、ある人は禁制論の結論に到達することなく、ある人は文庫版の中上健次の解説だけ読み――この時点で9割以上(予測)になると思われますが――この本を読むのをやめているのではないでしょうか。

今回、ナベノハウス読書会は一か月以上かけてこの本を読みとき、いろいろ感想を掘り下げました。そしてなんとか全貌を掴めたのではないかと思います。共同幻想論を手に取る前に、あなたが抱くその幻想を打破したい!私はここに読書会の全成果を結集して、共同幻想論を手短に要約することを宣言します。

吉本隆明共同幻想論で何が「やりたかった」のか?

小熊英二さんが『民主と愛国』で、吉本隆明の思想を「戦中派」を軸に要約しています。その要約をさらにざっくり説明してみます。

戦中派とは、もの心ついたころには日本が戦時体制で、皇国教育が当たり前の中で育ち、そして徴兵され戦争に駆り出される一歩手前で終戦を迎え、それゆえ社会が手のひらを返して戦後民主主義を標榜して行くことに激しく反発した世代です。

吉本は戦争によって社会から裏切られます。大人たちが正しいということを正しいと信じていたら、それは間違っていて反対のことが正しいと言い始めた。それはないだろう。吉本は、一世代上の民主主義を声高に称賛する丸山眞男に激しく反発し、同じように手のひら返しに苛立つ若者から大きな支持を集めました。

ところが、吉本は安保闘争によってもう一度挫折を味わいます。国会議事堂前で演説し逮捕されたとき、それまで語っていた思想を貫き通せず転向したかつての大人たちのように、自分もまた警察にひるんでしまった。釈放されて家族と会ったときにほっとした。自分だって、手のひら返しをした大人たちと同類なのではないか。

吉本は開き直ります。自分のことを、そして恋人や家族を大切にして、日々の生活を優先し、社会がどうあるべきだこうあるべきだという言説を振り回さない、これが手のひら返しをしない正しい生き方である。これは「知識人」の生き方ではなく、「大衆」の生き方だ。私は大衆を肯定する!

共同幻想論は、社会のつくりだす「共同幻想」から自立し、共同幻想にのみ込まれた自分を、そして家族を取り戻そうという前提にたって書かれました。自己幻想、そして一対一の性的関係である対幻想、これが根本であり、共同幻想はその上に覆いかぶさっています。共同幻想の何たるかを知り、それを払いのけようではありませんか。

吉本隆明共同幻想論で何が「言いたかった」のか?

国家について、西洋思想はとても割り切った考え方をしています。個人があり、その上に国家がある。国家は個人の集まりに乗っかっているだけで、物質的な基盤を持たない、幻想に過ぎないものだ。これなら切り離すのも簡単でしょう。だが、日本では、「アジア的特質」を持つ日本ではちがいます。ここでは国家が個人をすっぽり包み込む。国家の本質は共同幻想だが、その共同幻想は風俗や宗教や民族やその他もろもろとまじりあって自分や家族を覆いつくし、生活の隅々にまで入り込んでいます。

なぜ共同幻想が生活の隅々にまで入り込み、私たちをすっぽり覆っているのか。それは、常民の習俗から日本の本質を探ろうとした柳田民俗学と、その日本の本質をすっぽり包んで覆い隠している古事記日本書紀の神話を通して解明できます。有史以前の古来から、個人や家族が作り出す幻想(習俗)と共同幻想(国家神話)がまじりあっているのが日本における「アジア的特質」であり、これを論じない限り、日本における共同幻想からの独立は達成できないのです。

用語解説

自己幻想:一人称単数の幻想(私,僕,俺)

対幻想:二人称単数・複数の幻想(貴方,君,お前,貴方たち,君たち,お前たち,うち,うちら)

共同幻想:一人称・三人称複数の幻想(私達,我々,我が国,かれら,あいつら,あちらの方々)

正確には、対幻想は一人称単数と二人称単数の対を本質とする幻想、共同幻想は一人称単数や二人称単数が、共同体の用意した一人称複数や三人称複数と置き換わった幻想だと思われます。

吉本はちゃんと「まとめ」を書く

共同幻想論を手っ取り早く理解するには、各章の最後の段落を読むのが一番だ!

吉本は、今まで論じてきたことを要約するのではなく(要約できるほど明快な論述はめったにお目にかかれない)、とりあえずこういうことを言うつもりだったという動機を章の最後に書きつけているように思われます。

禁制論

共同的な幻想もまた入眠と同じように、現実と理念との区別が失われた心の状態で、たやすく共同的な禁制を生み出すことができる。そしてこの状態の本当の生み手は、貧弱な共同社会そのものである。

これこれをしてはならないという禁制(タブー)は、貧弱な共同体が、現実と理念が区別できない状態で生み出している。

憑人(つきびと)論

ここでは娘の類てんかん的な異常は、遠野の村落の共同的な伝承に結びついている。・・・娘の<憑き>の能力を本当に統御するのは、遠野の村落の伝承的な共同幻想である。

憑依によって共同体の伝承が村の異常な個人に体現される。人が現実感覚を失って共同幻想にのっとられるのが憑依である。

巫覡(かんなぎ)論

<女>は男女の対幻想の共同性の象徴であり、<狐>や<蛇>やその他の動物や<神>は、共同体の共同幻想の象徴だということである。・・・男女の対幻想の共同性を本質とする<家>の地上的利害は、共同幻想を本質とする村落共同体の地上的利害といかに、いかなる位相で結びついたり、矛盾したり、対立したりするか、・・・読み取るべきである。

男女の対幻想は、村落共同体の共同幻想と、結びつくこともあるけど、矛盾したり対立したりすることもあるぞ!

巫女(みこ)論

巫女にとって<性>的な対幻想の基盤である<家>は、神社にいつこうが諸国を放浪しようが、つねに共同幻想の象徴の営む<幻想>の<家>であった。巫女はこのばあい現実には<家>から疎外されたあらゆる存在の象徴として、共同幻想の普遍性へと雲散して行ったのである。

巫女は対幻想の対象を共同幻想にのっとられてしまい、家から疎外されている人である。

他界論

共同幻想が自己幻想と対幻想の中で追放されることは、共同幻想の<彼岸>に描かれる共同幻想が死滅することを意味している。共同幻想が原始宗教的な仮象であらわれても、現在のように制度的あるいはイデオロギー的な仮象であらわれても、共同幻想の<彼岸>に描かれる共同幻想が、すべて消滅せねばならぬという課題は、共同幻想自体が消滅しなければならぬという課題といっしょに、現在でもなお、人間の存在にとってラジカルな本質的課題である。

現代の制度やイデオロギーは、原始宗教と同じように、共同幻想だ。共同幻想は消滅せねばならない!

祭儀論

大嘗祭の祭儀は空間的にも時間的にも<抽象化>されているため、・・・穀物の生成をねがう当為はなりたちようがない。・・・純然たる入魂儀式に還元もできまい。むしろ<神>とじぶんを異性<神>に擬定した天皇との<性>行為によって、対幻想を<最高>の共同幻想と同値させ、天皇が自分自身の人身に、世襲的な規範力を導入しようとする模擬行為を意味するとかんがえられる。・・・この<抽象化>によって、祭儀は穀物の生成を願うという当初の目的を失って、・・・共同規範としての性格を獲得してゆくのである。

巫女が対幻想を共同幻想に乗っ取られたように、天皇も対幻想を共同幻想に乗っ取られた。そして共同幻想の、抽象的な規範が生まれ、抽象的に束縛するようになる。

母制論

スサノオが死んだ母のいる妣の国へゆきたいといって哭きやまないために<父>から追放され(このことは兄弟のあいだの<対幻想>の解体と同一である)、しかも同母の姉であるアマテラスとの幻想的な共同誓約の<性>儀式を交換する。・・・スサノオは追放されて土着種族系の共同体の象徴的な始祖に転化する。

兄弟の対幻想が解体され、姉と弟の対幻想は共同幻想にのっとられ、スサノオ共同体の象徴になってしまうのであった。

対幻想論

穀物の栽培と収穫の時間性と、女性が子を妊娠し、分娩し、男性の分担も加えて育て、成人させると言う時間性が違うのを意識したとき、人間は部族の共同幻想と男女の<対>幻想との違いを意識し、またこの差異を獲得していったのである。

農耕が始まることで、人間は対幻想とは異なる共同幻想を獲得していった。

罪責論

古事記』のヤマトタケルの遠征物語は・・・ほんらいは家族内の<対幻想>の問題であるはずのものが、部族国家の<共同幻想>の問題として現れる。そいういうプリミティヴな<権力>の構成譚として、はじめて意味をもっている。・・・『古事記』のヤマトタケルは土着の勢力を平定する途中で、まさに『古事記』の編者が希望するとおりに病死する。

家族内の<対幻想>の問題が国家の<共同幻想>の問題にのっとられ、ヤマトタケル国家の都合によって野垂れ死にしてしまった。

規範論

わたしたちはただ、公権力の<法>的な肥大を、現実の社会的な諸関係が複雑化し、高度化したために起こった不可避の肥大としてみるだけではない。最初の共同体の最初の<法>的な表現である<醜悪な穢れ>が肥大するにつれて<共同幻想>が、そのもとでの<個人幻想>に対して逆立していく契機が肥大してゆくかたちとしてもみるのである。

公権力が肥大するのは、社会が複雑で高度になるからだ。そうすると、共同幻想が個人幻想と対立することがどんどん多くなっていくことを見逃してはいけない!

起源論

古事記』の編者たちの世襲勢力が、かれらの直接の先祖として擬定した<アマ>氏の勢力は・・・おそらく魏志の記載した漁労と農業と狩猟と農耕用具などの製作を営んでいた部族に関係を持つものであった。それにもかかわらず太古における農耕法的な<法>概念は<アマ>氏の名を冠せられ(天つ罪)、もっと層が古いと考えられる婚姻法的な<法>概念は、土着的な古勢力のものになぞらえられている(国つ罪)。この矛盾は太古のプリミティヴな<国家>の<共同幻想>の構成を理解するのに混乱と不明瞭さを与えている。

日本は、個人や家族と国家の共同幻想が西洋のようにはっきり分かれず、まじりあっている「アジア的特質」を持っている。この、個人や家族と国家が入り混じる状態は、古事記にすでに表れている。

魏志倭人伝に書かれているような、家族レベルの決まりで営まれる部族が本来の姿である。共同体の法によって運営される国家はあとからできたものなのに、古事記が先祖の姿として想定しているのは共同体の法を持つ<アマ>氏なのだ!