ナベノハウス活動記録

熊本コモンハウス「ナベノハウス(鍋乃大厦)」@KNabezanmaiの活動記録です

春です

こんにちは。ナベノハウス運営者のまりもです。鍋とは関係ないですが、今日はすばらしい快晴と清々しい気候で最高の一日でした。最近は、あちこちに様々な草花が芽吹いているので、彼らの名前を調べるのにはまっています。

千葉工業大学の開発したアプリ「ハナノナ」で簡単に名前が調べられます。写真のとり方で間違った判定が出ることも多ですが、同時に表示されるウィキペディアのページで確認できるようになっています。

play.google.com

ある程度草本の知識があるとアプリの判定に振り回されず、名前もおぼえやすいです。花や葉のつきかたや形が丁寧に説明されていて、解説もわかりやすい図鑑が一冊手元にあると心強いです。ここで紹介している図鑑は、和名の由来も書かれていてお勧めです↓

こうした図鑑の問題点は、600種ほどでは身近な草花を十分網羅できないことです。図鑑を片手に散策するだけでは、いくら調べても同定できないということがよくありました。しかし、ハナノナやgoogleレンズがあれば情報はいくらでも引っぱって来てくれます。「さっぱりわからない」ということはとりあえずありません。そこで、図鑑で科や属レベルの大まかな特徴を把握しておき、これはキク科だな、セリ科だな、マメ科だな、アブラナ科だな、といったざっくりした知識と組み合わせることで、明らかに間違った判定を除外できるのです。

ということで、熊本空港カントリークラブに生えていた草花をハナノナで判定してみました。

f:id:Nonpoli:20220417194715j:plain

f:id:Nonpoli:20220417194738j:plain

f:id:Nonpoli:20220417194803j:plain

f:id:Nonpoli:20220417194822j:plain

f:id:Nonpoli:20220417194835j:plain

うまく写真に撮れませんでしたがオオアレチノギクもいました。

それから、ハナノナはあらゆるものを花と認識するので、いろいろ遊べます。

f:id:Nonpoli:20220417195027j:plain

懐中電灯

最後になりましたが、植竹希望選手、6ホールプレーオフの熱戦を制しての優勝おめでとうございます。

第七回文学フリマ福岡に出店しました(2021/10/31)

今さらですが、活動報告です。

ナベノハウス(鍋乃大厦)は「ノンポリ!」名義で第七回文学フリマ福岡に出店しました。

ナベノハウスの活動を始める前、第五回文学フリマ福岡に「ノンポリ!」で出店したので、二年ぶりに昔の名前で出ていました(ネタが古い)。

新刊『鍋de本』はナベノハウスで行った読書会の記録です。たくさん刷ったので、まだまだ頒布中です!!

新年度もナベノハウス(鍋乃大厦)をよろしくお願いいたします。

共同幻想論を直球で

 

あなたが吉本隆明をどこかで耳にしたことがあるとしたら、それは『共同幻想論』の著者としてではないでしょうか?

吉本隆明の代表作にして、非常に魅力的な表題を持つこの本。会社とか社会とか、そういうのは共同幻想、そう、「幻想」なんだ!という意味深な喝破に読めなくもないこの表題に惹かれて本書を手に取った方も多いのではないでしょうか。

ある人は目次を眺めながらそっとこの本を棚に戻したかもしれません。

ある人は序で流れについていけずに、ある人は禁制論の結論に到達することなく、ある人は文庫版の中上健次の解説だけ読み――この時点で9割以上(予測)になると思われますが――この本を読むのをやめているのではないでしょうか。

今回、ナベノハウス読書会は一か月以上かけてこの本を読みとき、いろいろ感想を掘り下げました。そしてなんとか全貌を掴めたのではないかと思います。共同幻想論を手に取る前に、あなたが抱くその幻想を打破したい!私はここに読書会の全成果を結集して、共同幻想論を手短に要約することを宣言します。

吉本隆明共同幻想論で何が「やりたかった」のか?

小熊英二さんが『民主と愛国』で、吉本隆明の思想を「戦中派」を軸に要約しています。その要約をさらにざっくり説明してみます。

戦中派とは、もの心ついたころには日本が戦時体制で、皇国教育が当たり前の中で育ち、そして徴兵され戦争に駆り出される一歩手前で終戦を迎え、それゆえ社会が手のひらを返して戦後民主主義を標榜して行くことに激しく反発した世代です。

吉本は戦争によって社会から裏切られます。大人たちが正しいということを正しいと信じていたら、それは間違っていて反対のことが正しいと言い始めた。それはないだろう。吉本は、一世代上の民主主義を声高に称賛する丸山眞男に激しく反発し、同じように手のひら返しに苛立つ若者から大きな支持を集めました。

ところが、吉本は安保闘争によってもう一度挫折を味わいます。国会議事堂前で演説し逮捕されたとき、それまで語っていた思想を貫き通せず転向したかつての大人たちのように、自分もまた警察にひるんでしまった。釈放されて家族と会ったときにほっとした。自分だって、手のひら返しをした大人たちと同類なのではないか。

吉本は開き直ります。自分のことを、そして恋人や家族を大切にして、日々の生活を優先し、社会がどうあるべきだこうあるべきだという言説を振り回さない、これが手のひら返しをしない正しい生き方である。これは「知識人」の生き方ではなく、「大衆」の生き方だ。私は大衆を肯定する!

共同幻想論は、社会のつくりだす「共同幻想」から自立し、共同幻想にのみ込まれた自分を、そして家族を取り戻そうという前提にたって書かれました。自己幻想、そして一対一の性的関係である対幻想、これが根本であり、共同幻想はその上に覆いかぶさっています。共同幻想の何たるかを知り、それを払いのけようではありませんか。

吉本隆明共同幻想論で何が「言いたかった」のか?

国家について、西洋思想はとても割り切った考え方をしています。個人があり、その上に国家がある。国家は個人の集まりに乗っかっているだけで、物質的な基盤を持たない、幻想に過ぎないものだ。これなら切り離すのも簡単でしょう。だが、日本では、「アジア的特質」を持つ日本ではちがいます。ここでは国家が個人をすっぽり包み込む。国家の本質は共同幻想だが、その共同幻想は風俗や宗教や民族やその他もろもろとまじりあって自分や家族を覆いつくし、生活の隅々にまで入り込んでいます。

なぜ共同幻想が生活の隅々にまで入り込み、私たちをすっぽり覆っているのか。それは、常民の習俗から日本の本質を探ろうとした柳田民俗学と、その日本の本質をすっぽり包んで覆い隠している古事記日本書紀の神話を通して解明できます。有史以前の古来から、個人や家族が作り出す幻想(習俗)と共同幻想(国家神話)がまじりあっているのが日本における「アジア的特質」であり、これを論じない限り、日本における共同幻想からの独立は達成できないのです。

用語解説

自己幻想:一人称単数の幻想(私,僕,俺)

対幻想:二人称単数・複数の幻想(貴方,君,お前,貴方たち,君たち,お前たち,うち,うちら)

共同幻想:一人称・三人称複数の幻想(私達,我々,我が国,かれら,あいつら,あちらの方々)

正確には、対幻想は一人称単数と二人称単数の対を本質とする幻想、共同幻想は一人称単数や二人称単数が、共同体の用意した一人称複数や三人称複数と置き換わった幻想だと思われます。

吉本はちゃんと「まとめ」を書く

共同幻想論を手っ取り早く理解するには、各章の最後の段落を読むのが一番だ!

吉本は、今まで論じてきたことを要約するのではなく(要約できるほど明快な論述はめったにお目にかかれない)、とりあえずこういうことを言うつもりだったという動機を章の最後に書きつけているように思われます。

禁制論

共同的な幻想もまた入眠と同じように、現実と理念との区別が失われた心の状態で、たやすく共同的な禁制を生み出すことができる。そしてこの状態の本当の生み手は、貧弱な共同社会そのものである。

これこれをしてはならないという禁制(タブー)は、貧弱な共同体が、現実と理念が区別できない状態で生み出している。

憑人(つきびと)論

ここでは娘の類てんかん的な異常は、遠野の村落の共同的な伝承に結びついている。・・・娘の<憑き>の能力を本当に統御するのは、遠野の村落の伝承的な共同幻想である。

憑依によって共同体の伝承が村の異常な個人に体現される。人が現実感覚を失って共同幻想にのっとられるのが憑依である。

巫覡(かんなぎ)論

<女>は男女の対幻想の共同性の象徴であり、<狐>や<蛇>やその他の動物や<神>は、共同体の共同幻想の象徴だということである。・・・男女の対幻想の共同性を本質とする<家>の地上的利害は、共同幻想を本質とする村落共同体の地上的利害といかに、いかなる位相で結びついたり、矛盾したり、対立したりするか、・・・読み取るべきである。

男女の対幻想は、村落共同体の共同幻想と、結びつくこともあるけど、矛盾したり対立したりすることもあるぞ!

巫女(みこ)論

巫女にとって<性>的な対幻想の基盤である<家>は、神社にいつこうが諸国を放浪しようが、つねに共同幻想の象徴の営む<幻想>の<家>であった。巫女はこのばあい現実には<家>から疎外されたあらゆる存在の象徴として、共同幻想の普遍性へと雲散して行ったのである。

巫女は対幻想の対象を共同幻想にのっとられてしまい、家から疎外されている人である。

他界論

共同幻想が自己幻想と対幻想の中で追放されることは、共同幻想の<彼岸>に描かれる共同幻想が死滅することを意味している。共同幻想が原始宗教的な仮象であらわれても、現在のように制度的あるいはイデオロギー的な仮象であらわれても、共同幻想の<彼岸>に描かれる共同幻想が、すべて消滅せねばならぬという課題は、共同幻想自体が消滅しなければならぬという課題といっしょに、現在でもなお、人間の存在にとってラジカルな本質的課題である。

現代の制度やイデオロギーは、原始宗教と同じように、共同幻想だ。共同幻想は消滅せねばならない!

祭儀論

大嘗祭の祭儀は空間的にも時間的にも<抽象化>されているため、・・・穀物の生成をねがう当為はなりたちようがない。・・・純然たる入魂儀式に還元もできまい。むしろ<神>とじぶんを異性<神>に擬定した天皇との<性>行為によって、対幻想を<最高>の共同幻想と同値させ、天皇が自分自身の人身に、世襲的な規範力を導入しようとする模擬行為を意味するとかんがえられる。・・・この<抽象化>によって、祭儀は穀物の生成を願うという当初の目的を失って、・・・共同規範としての性格を獲得してゆくのである。

巫女が対幻想を共同幻想に乗っ取られたように、天皇も対幻想を共同幻想に乗っ取られた。そして共同幻想の、抽象的な規範が生まれ、抽象的に束縛するようになる。

母制論

スサノオが死んだ母のいる妣の国へゆきたいといって哭きやまないために<父>から追放され(このことは兄弟のあいだの<対幻想>の解体と同一である)、しかも同母の姉であるアマテラスとの幻想的な共同誓約の<性>儀式を交換する。・・・スサノオは追放されて土着種族系の共同体の象徴的な始祖に転化する。

兄弟の対幻想が解体され、姉と弟の対幻想は共同幻想にのっとられ、スサノオ共同体の象徴になってしまうのであった。

対幻想論

穀物の栽培と収穫の時間性と、女性が子を妊娠し、分娩し、男性の分担も加えて育て、成人させると言う時間性が違うのを意識したとき、人間は部族の共同幻想と男女の<対>幻想との違いを意識し、またこの差異を獲得していったのである。

農耕が始まることで、人間は対幻想とは異なる共同幻想を獲得していった。

罪責論

古事記』のヤマトタケルの遠征物語は・・・ほんらいは家族内の<対幻想>の問題であるはずのものが、部族国家の<共同幻想>の問題として現れる。そいういうプリミティヴな<権力>の構成譚として、はじめて意味をもっている。・・・『古事記』のヤマトタケルは土着の勢力を平定する途中で、まさに『古事記』の編者が希望するとおりに病死する。

家族内の<対幻想>の問題が国家の<共同幻想>の問題にのっとられ、ヤマトタケル国家の都合によって野垂れ死にしてしまった。

規範論

わたしたちはただ、公権力の<法>的な肥大を、現実の社会的な諸関係が複雑化し、高度化したために起こった不可避の肥大としてみるだけではない。最初の共同体の最初の<法>的な表現である<醜悪な穢れ>が肥大するにつれて<共同幻想>が、そのもとでの<個人幻想>に対して逆立していく契機が肥大してゆくかたちとしてもみるのである。

公権力が肥大するのは、社会が複雑で高度になるからだ。そうすると、共同幻想が個人幻想と対立することがどんどん多くなっていくことを見逃してはいけない!

起源論

古事記』の編者たちの世襲勢力が、かれらの直接の先祖として擬定した<アマ>氏の勢力は・・・おそらく魏志の記載した漁労と農業と狩猟と農耕用具などの製作を営んでいた部族に関係を持つものであった。それにもかかわらず太古における農耕法的な<法>概念は<アマ>氏の名を冠せられ(天つ罪)、もっと層が古いと考えられる婚姻法的な<法>概念は、土着的な古勢力のものになぞらえられている(国つ罪)。この矛盾は太古のプリミティヴな<国家>の<共同幻想>の構成を理解するのに混乱と不明瞭さを与えている。

日本は、個人や家族と国家の共同幻想が西洋のようにはっきり分かれず、まじりあっている「アジア的特質」を持っている。この、個人や家族と国家が入り混じる状態は、古事記にすでに表れている。

魏志倭人伝に書かれているような、家族レベルの決まりで営まれる部族が本来の姿である。共同体の法によって運営される国家はあとからできたものなのに、古事記が先祖の姿として想定しているのは共同体の法を持つ<アマ>氏なのだ!

さよならすべてのエヴァンゲリオン

ナベノハウスの読書会、なんと二週続けてエヴァンゲリオンを語る会をやってしまいました。

正直、語る会の報告を自分が書くのは気が引けるのですが、せっかくいろいろ話したので何か痕跡を残しておこうと思います。

どうしてシンエヴァを作ったのか

話の前提として、95~96年のテレビシリーズ、97年の旧劇場版(EoE, 夏エヴァ)、2007年から始まった新劇場版、という流れがあります。僕はアニメ・ゲーム・マンガ禁止という家庭に育ち、中学生のとき放課後の教室で友達と「こっそり」観たのが旧劇場版だったので、エヴァにはかなり思い入れのある方だと思います。

この歴史をふりかえると、25年という月日もさることながら、2007年以降の展開はけっこう謎ではないでしょうか。エヴァの新劇場版を作るきっかけは、僕はよく知りませんが、カラーの仕事が立ち消えになってしまったのでエヴァンゲリオン(アニメ、旧劇場版)のリメイクをすることにした、という穴埋め的な経緯があるらしいです。

 90年代のエヴァンゲリオンは劇場版(Air/まごころ)で「終わっている」、そして庵野さんは式日を撮り、実写に向かいます。僕は旧劇場版でエヴァはきちんと完結したと思うので、どうしてまたリメイクしているんだろうというのは冷めた目で見ていました。終わったと思ったけど庵野さんの中では終わっていなかったのか、なんでこんなこと始めてしまったのか、そう簡単に90年代のエヴァンゲリオンと勝負できるのか?

これにたいする答えは実務的なもので、カラーを維持し前に進めるためにエヴァの力を借りたのだと思います。しかし、エヴァの力場にのみ込まれてしまった。ファンダムの厚さの前に引っ込みがつかなくなってしまった。これがエヴァの呪縛だと思います。エヴァの呪縛は2007年から始まっている、というのが僕の見方です。

annomoyoco.com

旧/Qの先に何があるのか

新劇場版を作り始めた庵野さんはかなり後悔したし、だんだん苦しくなっていったのでしょう。Qでなぜ破を全否定する内容になったのか、3.11の影響という人もいるけど僕は少し違うと思います。庵野さんは旧劇場版でファンに「気持ちいいの?」と説教してみせたように、自分のやっていること、作っているものに対する自傷的・自己破壊的な疚しさを持っている。これはプロフェッショナル庵野秀明スペシャルを観たときに感じました。

www.nhk-ondemand.jp

破はレイがシンジとゲンドウをつなごうとし、シンジが最後にレイを救うという主体性を獲得し、思い切りの良い形で終わりました。でも、それで興奮するファンダムに対し庵野さんはすごく否定的な気持ちになったのではないか。「エヴァに乗るな」「レイは救えなかった」「サードインパクトの贖罪が必要」などなど、徹底的なアンチテーゼを突きつけ、そして旧劇場版のときと同じく庵野さんはシン・ゴジラを撮り、実写へと向かいます。

しかし、新劇場版はまだ終わっていない。ここで放り投げることもできないわけではなかったかもしれませんが、庵野さんはもう一度エヴァンゲリオンを完結させる道を選びました。これはエヴァンゲリオンの二度目の終劇であると同時に、ある意味で、旧劇場版の自己否定の先があるわけです。

そしてエンタメが答えだった

庵野さんは、大衆をどこかで下に見ていたと思います。適度に困難に取り組みつつも分かりやすく感動できるハッピーエンドを求める、キャラを作品の文脈から外して物的に性的に消費する、そしてそうした「気持ちいい」ことに依存して逃避を繰り返す。しかもそうした大衆の上に消費社会が成立し、アニメ産業が成り立っているわけです。

ダースレイダーさんがQアンノの言っていますが、旧劇場版のカルト的な人気の影には、大衆に対する距離のパトスが確実に存在しました。ジャーゴンの嵐は早熟な知識欲を満たし、性描写の露悪さは思春期の戸惑いに一つの表現を与えていました。旧劇場版は大衆を敵に回すことで、個人の熱狂的なフェティシズムと結びついたはずです。

こうしたカルト的な人気を断ち切って大衆へ歩み寄ることを決めたのが、シン・エヴァンゲリオンだった。すごく乱暴なくくり方ですが、90年代の文脈を全部無視すれば、天気の子と同じジャンルの作品に仕上がっていると思います。

ボーイ・ミーツ・ガール、勧善懲悪、そして現代的なテーマ(家父長的ジェンダーからの脱却/気候変動/現実と虚構の交錯)が織り交ぜられた名作としてシン・エヴァンゲリオンを受容した人は多かったのではないでしょうか。

さらに思い切って言うなら、荒廃した近未来、家父長的な不死身の支配者、水と緑と人々を取り戻すために立ち上がる女性たち、武装した乗り物同士の激突・・・中盤はあたかもアクション映画のような展開が織り込まれてすらいるのです。

90年代のエヴァンゲリオンは客層として、コアなオタク男性を第一に念頭に置いていたと思います。しかし2000年代のエヴァンゲリオンはもっとさまざまなバックグラウンドを持った、若い世代から年配の世代まで、そして女性までを念頭に置いた作品にする必要がありました。この流れは、ほしのこえからスタートして天気の子に至る新海さんと通底するものがあります。

庵野さんと「同類」のオタク男性には刺さった旧劇場版の自己否定も新劇場版の客層は鼻白むだけでしょう。そしてまた、2000年代のエヴァンゲリオンにはオタク男性以外の広い客層からの批判が届けられたはずです。ジェンダー描写の刷新、生活描写の取り入れ、暴力ではなく対話による解決を図り、子どもを持つ大人の姿を描くこと、これらをシン・エヴァンゲリオンは愚直に実行していきます。

カラーの経営者としての責任、アニメ制作の仕組みに乗っかるのではなくそれを支える側に回った者に要求される振舞い、それが大衆への歩み寄りでした。シン・エヴァンゲリオンシン・ゴジラと同じように、大衆娯楽として、エンタメとして、90年代のエヴァンゲリオンを生まれ変わらせることに成功した。東さんがそれを手放しでたたえていたのが僕には印象的でした。

www.asahi.com

 

無限列車編とは何だったのか

鬼滅の刃無限列車編(以下、本作)が歴代興行収入一位を達成して社会現象になっている。ということは、この作品の内容を多くの人が共有している。だから作品について論じるときに比較的広い読者を想定できる。批評冥利に尽きると言わなければならない。
もう公開からずいぶんたったので、ネタバレを云々する時期でもないだろう。それに本作は原作の漫画の筋を忠実に追っているから、あらすじを把握したうえで映画を観た人も多かったはずだ。本論も、行論でネタバレを注意することはしない。

 

魘夢vs炭治郎

映画は、魘夢と戦う前編と、猗窩座と戦う後編とに分けることができる。まず魘夢との戦いから振り返っていこう。

夢は願望充足である

魘夢は人間に夢を見させて精神を破壊する、心理戦を行う鬼である。
魘夢は決まって、術をかける人間に「よい夢」を見させる。それは最後に絶望に顔をゆがめて死ぬところを見たいからであって、人道的な理由ではないのだが、魘夢の術のかけ方は夢の本質を射ている。
フロイトが指摘したように、夢とは願望充足である
例えば喉が渇いていると夢に水が出てくるし、おねしょをする夢ではたいていトイレが出てくる。それは、渇きや尿意によって夢から覚めるのを、夢を見る私自身が防ごうとして、水を飲ませたりトイレに行かせたりするからだと考えられる。魘夢は、人が「よい夢」を見たいという欲望はものすごく強いと語っているが、まさにその通りである。
それほど夢を見続けようとするのに、なぜ私たちは夢から覚めることができるのか?
これはフロイト的にも一つの問題であった。

快楽原則と現実原則から、生の欲動と死の欲動

いつまでも夢を見ていようとする私たちの本性を快楽原則と呼ぶとすれば、私たちが夢から覚めることができるのはもう一つの原則、現実原則に従うからである。
夢の中にいるだけではやがて餓死してしまうし、外の危険から無防備になってしまう。私たちは起きて活動しなければならない。生きるための合理性から外れて快楽原則を追求しないよう、それを断念したり延期したりする必要がある。
こうして現実原則が快楽原則に押し勝つとき、私たちはしぶしぶ目を覚ますのである。
だが、フロイトはもう一つの説明も用意していた。
快楽原則では、私たちが悪夢を見る理由が説明できない。なぜ人間は自己破壊的な夢をわざわざ見るのだろうか。それは、私たちが自己破壊の欲求を持っているからである。快楽原則と現実原則は、私たちが生きようとするからこそ存在している。だがこうした生の欲動、自己保存の欲動と根本的に対立する、死の欲動、自己破壊の欲動が人間にはある。
生の欲動が死の欲動に打ち勝つとき、私たちは命からがら目を覚ますのである。

魘夢の夢理論

魘夢はこの二つの理論を巧みに使い分けている。
第一段階の攻撃では、快楽原則を現実原則に優越させることで、最終的に夢を見せた人間を廃人にしてしまう。その人間は現実原則を失い、どこまでも快楽に浸ろうとするということだろう。あるいは、快楽原則だけの人間は無防備であり、現実原則とのバランスがとれた「覚醒した」人間の狡猾な侵襲によって傷つけられるということである。
ここで、炭治郎の見た夢について考えていこう。
炭治郎がかつての円満な家族を欲望していることは明らかである。そこでは兄弟全員が兄のことを敬慕し、母は惜しみない愛情を注いでくれる。情緒的な満足の全てを与えてくれる「家族」の原風景である。この満足は、水面に映った現実原則の忠告の声でさえ破ることができない。
しかし、全てを与えてくれる母子関係に否を突きつける「父」が介入し、この夢は終わりを告げる。この否定は快楽原則に真っ向から反対する、「こうあらねばならない」という規範である。炭治郎は生活者から戦士に、生活者としての自分を殺すことで立ち戻る。この否定は単なる夢の断念や延期ではなく、快楽そのものの否定であり、だからこそ魘夢はその「胆力」に驚いたのである。
魘夢は炭治郎に追い詰められ、第二段階の攻撃を行う。
すなわち自己破壊的な夢、家族が生き残った自分を責める罪悪感に覆い尽くされた悪夢を見せる。もちろん家族が死んだのは炭治郎のせいではない。それどころか炭治郎もまた被害者であるはずなのに、炭治郎は生き残ったことによる罪悪感に責めさいなまれてしまう。
第二段階の攻撃は、死の欲動を生の欲動に優越させることで人間を精神ごと破壊する、魘夢の血鬼術の真骨頂と言えよう。
これは典型的なトラウマ(精神的外傷,PTSD)である。
手や足の外傷は腫れ痛み血が流れる。それと同様に精神の「内傷」であっても、それは身体の不調や麻痺、自傷や自分の安全を省みない行為といった「外傷」として何度でも現れる。炭治郎が戦士でなければならないのは、家族を殺された経験が「外傷」として現れたからだ。だからこそ炭治郎は夢で自分を躊躇なく殺せたのだと思う。
魘夢は第一の攻撃で罪悪感をしっかり醸成させておいて、第二の攻撃でそれを全面的に展開してみせた。
ここには「押してダメなら引いてみろ」「よい夢が効かないならわるい夢で」という以上のものがある。魘夢は、炭治郎の意識の底には家族への罪悪感が、そしてその悪夢の中にのみ込まれたいという死の欲動が渦巻いていることを見抜いていた。だが、今度は逆に円満な家族のイメージが対置される(第二の夢では首を切っていないことに注意してほしい)。
炭治郎は罪悪感に打ち勝ち、家族は自分を全面的に肯定しているという確信とともに目覚めるのである。

炭治郎はトラウマを克服したか?

あまりにもあっけなく話が進んでしまうのだが、ここで炭治郎は驚嘆すべき精神的成長を遂げていると言わなければならない。隊士としての自分から逃避すべく夢見た円満な家族の原風景を捨て去りながら、自分だけ生き残ったことへの罪悪感を乗り越えるためにその原風景をもう一度積極的に選び取るのだから。
ただし、この評価はミスリーディングのきらいもある。そもそも炭治郎は家族への罪悪感に葛藤しておらず、隊士になったのは鬼への純粋な復讐心と考えたほうがすっきりするかもしれない。魘夢が見せた第二の攻撃に、炭治郎は「家族を侮辱するな」と応じている。これは、夢を通して不快な言葉を浴びせられたことに立腹しただけのように見える。もし第二の攻撃が炭治郎の罪悪感とぴったり重なるものだったら、もっと狼狽する演出があってもよいだろう。炭治郎にとって、家族が、父が自らを「役立たず」と評することはシンプルに有りえないことだった。
しかし、このような父子関係を誰もがもつとは限らない。

杏寿郎の夢:二つの問い

それでは、本作のメインキャストである煉獄杏寿郎へと進もう。
杏寿郎は汽車で炭治郎たちと会ったときから「面倒見のいい兄貴分」として振る舞おうとする。魘夢の見せた夢でその理由が判明する。父が鬼と戦う情熱を失い酒におぼれるようになって久しく、杏寿郎は幼い弟に対してかつて父が為していた指導者・庇護者の人格を演じなければならなかった。そして炭治郎たちに対しても、基本的に弟に対するのと同じように接していたのだ。
ところで、杏寿郎の夢は炭治郎や善逸や伊之助の夢と異質である。そこには二つの問いがある。
第一に、魘夢が本当に「よい夢」を見せていたなら、杏寿郎の父は炎柱の報告を喜んで受け、酒にも溺れていなかったはずではないか。どうして弟が悲壮な涙にくれるような夢を杏寿郎はわざわざ見たのだろうか。
第二に、炭治郎は父の声によって覚醒条件に気づいた。杏寿郎は何によって覚醒条件に気づいたのか。二つの可能性がある。一つは父が炎柱だった頃の人格を取り戻すことによって。一つは母の声によって、である。

母の呪縛

炭治郎が父の意思を心身の底で受け継いでいた者であるのと対照的に、杏寿郎は母の意思を心身の底で受け継いでいた者であった。炭治郎の父も杏寿郎の母もともに体が弱く幼い時に死去し、それゆえにこそ、二人の人格の核心となっている。
「受け継ぐ」と言えば聞こえがいいが、それは鬼殺の戦士として生きよという「呪縛」である。
炭治郎は父亡き後も幸福な家族の中で、鬼に惨殺されるまで愛に満ちた生活を送ることができた。だからこそ家族との断絶を、父から受け継いだ戦士の義務とまっすぐにつなげることができた。対して杏寿郎は父から戦士の義務を否定された。それでも戦士として生きることを選んだ杏寿郎からは父の存在が消え、母の告げた呪縛が絶対化された。
炎の呼吸をどれだけ極めても日の呼吸に及ばないことを悟った父は指導者・庇護者であることを放棄する。そして実際に杏寿郎は猗窩座に殺され、炭治郎は猗窩座と無惨に勝つのだから、この見立ては正しかった。その現実をあるがままに受け止めたのはある意味で父、槇寿郎の誠実さであった。しかしそれは煉獄家に父の不在を招いたのである。
第一の問いは、父が再び指導者・庇護者として振る舞うことを杏寿郎が一切望んでいないことを示している。むしろ弟に対して、後輩に対して、指導者・庇護者たることが杏寿郎の一番の望みであることを示している。それゆえ第二の問いへの答えは、母の声によって覚醒条件に気づいた、となる。では、母はいったいいかなる声によって杏寿郎に快楽原則からの自決を促したのか。その声は作中に描かれていないが、あまりに自明で描くまでもなかったのだ。
杏寿郎は眠っている間にさえ精神の核への攻撃に気づいて反応している。無防備のまま眠り続けてはいけないという現実原則が快楽原則に押し勝ち、覚醒条件にも合理的に気が付いたはずである。
現実原則は快楽原則と根本的には対立しない。夢で弟を指導したように、汽車の中で杏寿郎は炭治郎たちを指導する。杏寿郎にとっては、現実と夢との間にほとんど違いがない。母の声は、いまなすべきは弟の指導ではなく炭治郎たちの指導であることを諭せばよいだけだったであろう。

猗窩座vs杏寿郎

それでは猗窩座との戦いに進むことにしよう。猗窩座は極端に弱者を嫌い、自らと戦い合える強者だけを求める。これはこれで考察に値するが、本稿では深入りしない。猗窩座は杏寿郎の強さにほれ込み、ともに鬼となって高みを目指そうと提案する。

正義を越えた対話へ!

杏寿郎は猗窩座の「弱者嫌い」に反論する。第一に、「強さ」は肉体的なものだけに使う表現ではない。第二に、猗窩座が殺そうとした炭治郎は弱者ではないから、侮辱してはならない。
この反論に関係して、本題からそれるが論じておきたいことがある。
汽車の乗客や乗務員は肉体的にだけでなく精神的にも弱い。恐怖にすくんで逃げ惑うか、自由意思を働かせようとしても鬼に利用されるのがせいぜいである。そして鬼の手先になったとしても、鬼殺隊は乗客や乗務員に寛大である。これは炭治郎にとくに強く表れており、自らに重傷を負わせた運転手は「汽車に足を潰されたから十分罰を受けた」と言うシーンがある。だが、罰を受けたと言えるためには、運転手は自分の意思によって炭治郎を刺し、運転手の職務を放棄して乗客全員を危険にさらしたことを認め、さらに、それを誤りだったと認める必要がある。
どう見ても運転手と車掌は魘夢と共謀しており、職務を考えれば魘夢以上に罪が重いとさえいえる。
鬼殺隊とその関係者以外の人間は、本作における公認の弱者であり(そのちょうど反対に位置するのが階級の低い鬼たちである)、鬼殺隊の営為を正当化し鬼の悪行を強調する以上の役割は期待されていない。だからこそ「乗客を誰も殺さない」ことが鬼殺隊にとって至上命題なのである。もちろん汽車の中にはスリがいただろうし、女性を抑圧する家父長、弱者を足蹴にする成金、労働者を窮乏させる資本家はほぼ確実に乗っていたはずだ。しかしそのような多様性も鬼の醜悪さの前には霞んでしまう。
漂白された弱者が一方的な共感を受け、黒塗りされた鬼という悪には一方的な敵視が向けられる。
かくのごとく膨れ上がった正義の危険性は多くの論者が指摘している。ここで私が強調したいのは、だからこそその壁を乗り越えて対話を試みる存在には意義があるということである。私には、鬼殺隊の「弱者好き」はバランスを欠いており、それと対立する猗窩座の主張にも魅力があるように思われる。それは強者を、弱者を介さずストレートに評価する思想だからである。もちろんここにも、優生思想をはじめとする多くの危険がある。

自己犠牲か、自己陶酔か

さて、無限列車の中と同様に杏寿郎は炭治郎たちの指導者・庇護者として猗窩座と戦う。それに対して猗窩座は杏寿郎との戦闘パフォーマンスを誇るために戦う。これは利他主義と利己主義の対立であると宮台真司は整理している。杏寿郎と猗窩座の戦いのクライマックスが杏寿郎の自己犠牲であることは多くの視聴者が同意するだろう。また、炭治郎は杏寿郎が乗客・乗員と自分たち後輩を一人も死なせなかったことを、すなわち利他主義を貫徹したことを理由に、猗窩座への勝利を宣言している。
しかし、自己犠牲は決して透明な概念ではない
短期的に他人を利することで長期的に自分を利する(情けは人のためならず)場合、一見した利他主義は利己主義と矛盾せず、むしろ一見した利己主義の方が結果的に利己主義と矛盾してしまうことが考えられる。あるいは、もし自己犠牲から最高の快を得る者がいたら、この人物を利他主義者と呼ぶべきだろうか。それとも利己主義者と呼ぶべきだろうか。
単純に杏寿郎を倒したことを以て猗窩座の勝ちとは言えないにしても、炭治郎の勝利宣言には疑問が残る。
本当に一人も死なせないつもりなら、杏寿郎も死なせてはいけなかったはずだ。
そして杏寿郎にはあきらかに自己犠牲に陶酔する危険が見受けられる。なぜなら、弱者は一人も殺させないが強者は死んでも責務を果たすという極端なエリート主義を母から訓示され、母の死と父の教育放棄とによってそれが絶対化され、生き方の核心となってしまっているからだ。猗窩座は杏寿郎と戦う自分に陶酔しているが、杏寿郎も全力を尽くした果てに猗窩座に殺される自分に陶酔している。ただ、その陶酔があまりにも純粋なために、猗窩座ほど嫌味がないのである。
杏寿郎が死ぬべきだったと言う者はもちろんいないだろうが、鬼と人との差が埋められない以上、杏寿郎はいずれ死ぬほかなかったともいえる。たまたま下手人が猗窩座だっただけで、死亡フラグは無限列車に乗り込む前から立っていたのだ。

鬼になれ、杏寿郎

私は、煉獄杏寿郎は鬼になるべきだったと考えている。
最後に渾身の一撃を繰り出し、猗窩座を朝日の前に食い止めながら鬼になる。それは人間を越え(人間のままではたいしたものにはなれない)、鬼の力を手にしてでも猗窩座に勝つためにそうするのである。そして猗窩座と組み合ったまま朝日に消えていくという終わり方である。もちろんそこで杏寿郎の物語は終わるが、杏寿郎の精神の広がりを感じさせる終わり方である。
猗窩座の誘いは、杏寿郎が母の呪縛、さらには父の呪縛からも脱するチャンスだった。
しかし結局、杏寿郎は母に抱かれながらその祝福を受けて死ぬことになる。父に残した言葉は「体をいたわってほしい」という優しい戦力外通告であり、再び鬼と戦うことへの期待を込めたものではなかった。
杏寿郎が死んだあと、その期待に応えるにはまだ「分厚い壁がある」と嘆く炭治郎に伊之助は「生きていかなきゃならねえ」と切り返す。期待に応えられるかどうかはどうでもいい、期待に応えられると信じて強くなる努力をするしかないという意味である。
ここには、強いものとして生まれ弱いものを助けるために死んだ杏寿郎との決定的な違いがある。
伊之助たちはこのようなエリート主義を内面化していないのだ。猪に育てられてでも生きることを選んだ伊之助は、死もいとわず母の言葉に従う杏寿郎とは別の心づもりであることを示唆させる。

 

鬼滅の刃 7 (ジャンプコミックスDIGITAL)

鬼滅の刃 7 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 

 written by 雪原まりも

健康で清潔で、道徳的な秩序ある読書会の記録

 年の瀬が迫ってまいりました。今年の締めくくりにふさわしく、12月27日に『健康で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』読書会が敢行されました。今年はZOOMで何度も読書会を開催しましたが、だんだんオンライントークも板についてきました。しかし、これは一年前にはまったく考えられなかったでしょう。

そしてこの変化はまさに、感染症に対する健康的で清潔な努力に即応した結果でした。新しい生活様式とは健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の強化に他ならなかった。

f:id:Nonpoli:20201231215501j:plain

トリ鍋

東京は健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の典型です。そしてコロナ禍において、その秩序は「三密回避」、「自粛」などによってさらに強化されました。

だがこの美しさは社会的圧力を帯びていて、そこに住まう私たちを美しさの鋳型へ、行儀良さの鋳型へと押し込んでいるのではないだろうか。(p20)

 私たちは犯罪を犯さず、被害に遭わず、他人を不快にせず、自分を大切にし、他人を尊重し、人権を重んじ、誰もが活躍できる美しい社会へととどまることなく進んでいる。

しかし、動物としての人間はもっと乱雑で、暴力的で、他人を傷つけ、不快にし、自分勝手な存在であり、そうした角を教育によって、訓練によって、啓蒙によって、丸くしていかねばならないはずです。その努力に終わりはないかもしれません。

この努力の限界は二つの方向で表れているように思われます。

一つは医療や福祉の膨張です。絶え間ない制度の拡充や周囲の理解の促進が、ともすれば秩序から外れてしまいがちな個人の包摂を可能にしています。

もう一つは少子化です。どんなに環境を整備しても、「動物」として生れ落ちるヒトそのものを変えることはできません。子どもが秩序から外れてしまうリスクは大きく、そして秩序に従うよう育てるための努力も膨大です。「子ども」がゼロの社会はありえないけれども、少なければ少ない方が理に適っている。

子どもをもうけるかどうかは自由意思に基づくものであり、とくに出産する女性の自由意思を尊重するものですから、ミクロな目で見れば子どもを産まないという決定に何も問題はありません。ですから、子どもが生まれないのは社会の問題だということにしかならない。おそらく、健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会では、さらに子どもを産みやすく、子どもを育てる人をサポートする努力がより一層課されることでしょう。しかし、そのような努力がほとんど意識化されていない時代の方が子どもの数は多かったのです。そこには根本的な背理があるのではないでしょうか。

こうした努力の限界に対抗するべく、技術も急速に進歩しています。私たちはたとえ意識していなくても、公共施設や居住空間の空間設計、アプリやGPSといったテクノロジーによるサポートなどによって秩序を守るように方向づけられています。Aiのサポートによる交通事故の減少など、その最たるものでしょう。

筆者はここにさらにもう一つのテーマ、清潔と健康を加えます。公衆衛生ファシズムや健康志向の行きすぎの指摘は個々になされてはいましたが、それを福祉や精神医療や少子化と合わせて包括的に提示したところに本書の面目があると言えるでしょう。

これらはかつてフーコーによって「生権力」として指摘されてきたものを彷彿とさせます。権力は否定や抑圧ではなく、動機付けや支援や包摂といったポジティブな方向から人々を努力し活動するように働きかけます。それは歓迎すべきことのはずなのにもかかわらず、不自由と束縛の臭いがかすかに漂っている。

この不自由と束縛の正体として、本書は二つの要因を挙げているように思われます。

一つは「資本主義と経済効率のイデオロギー」です。健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会をなぜここまで推し進めることができたのか、その原動力は、経済を回せる、労働しやすくなる、サービスの種類や規模、消費の範囲が拡大することと矛盾しないからにほかなりません。かつて経済至上主義は人間性の抑圧に結びつけられていました。しかし、個人を解放し社会を発展させることは経済至上主義と矛盾しないことをここ百年で資本主義社会は「実証」してみせたのではないでしょうか。もちろん、そこに環境問題が立ちはだかってはいるのですが。

一つは「個人主義と社会契約」です。人間関係はますます個人の間の売買契約を規範とし、個人の間のコンテンツを媒介したコミュニケーションへと変容している。しかし、これは自立した個人に収まり切らないケアや依存をアウトソーシングすることができた、ブルジョア男性モデルに由来する。そのディスカッションに参加できなかった女性や子どもや高齢者や障害者やマイノリティは、もちろん現在さまざまな運動によって急速に可視化されエンパワメントされているが、そうした運動の目標には「個人主義と社会契約」が可能な自立した個人であることが暗黙の前提となっている。

本書はあくまで現状報告を目的とし、処方箋も体系的な理論も示されているわけではありませんが、本年を締めくくる印象深い読書会となったと思います。

 

?

?

 

アフター・リベラル 変幻自在のリベラリズム

11月も押し迫った28日、ナベノハウスでは『アフター・リベラル』読書会がひっそりと敢行されました。本書にはいろいろ不満もあるものの、読書会自体は盛り上がって楽しいものになりよかったです。

f:id:Nonpoli:20201129163233j:plain

牡蠣鍋

リベラリズムは、もともとはジョン・ロックの統治論などに起源する、王制や封建制に対する個人の権利の擁護から始まったものでした(政治リベラリズム)。さらに産業革命中産階級が勃興して来ると、商業や市場の自由、私有財産の保護を訴える主張もうまれました(経済リベラリズム)。

こうした古典的リベラリズムに対抗するのが、資本家階級を批判し労働者の団結を訴えた共産主義、国家の団結を市場の価値としたファシズムなどです。二度の世界大戦により暴力的に進行した平等化とあいまって、リベラリズムを中心にすえたアメリカやイギリスも国家の統制や福祉政策をある程度踏まえる必要に迫られました。こうして経済リベラリズムを抑制する一方で、両性の平等、個人の尊重をはじめとする政治的リベラリズムは社会に浸透していきました。これがリベラル・デモクラシーです。

リベラル・デモクラシーにおいては、日本ではより共産主義社会主義に親和的な野党と資本主義に親和的な与党という組み合わせが安定的に成立しました。これはアメリカやイギリスなど、西側諸国にも基本的に言えるようです。ところがソ連崩壊後、リベラル・デモクラシーも変容を迫られます。性別や人種や障害といった属性に関係なく、全ての人に平等な権利と機会を求める政治リベラリズムは、左派・右派を問わず共通の認識となりつつあります。その一方で労働組合の弱体化が進み、市場原理主義をとなえる経済リベラリズムがネオ・リベラリズムとして息を吹き返します。

ところが、リベラリズムの徹底は共同体の価値観を切り崩し、個人のアイデンティティを強く要請し(アイデンティティ政治)、それについていけない人々を生み出します。こうした人々が旧来の価値観に過剰に同化したり、リベラリズムを敵視してより権威的なリーダーを求めるようになる、ここに現在の政治的対立が生まれているというのが筆者の見立てです。

筆者は終章で処方箋を提示していますが、これはリベラル・デモクラシーの良い点を踏まえ、民主主義の価値により過剰なリベラリズムの矛を収めるといった提案に思われます。でも、それが機能しなくなっているからこそ「アフター・リベラル」なんじゃないの?と思ってしまうのですが。