ブルシット・ジョブ――もうひとつの理論
10月31日、ハロウィーンの仮装をしり目にナベノハウスでは読書会が敢行されました。読んだのは今話題の『ブルシット・ジョブ』です。
わたしは、本書がわたしたちの文明の心臓部を射抜く矢となることを願っている。
著者のグレーバーはそう書きつけて今年9月2日に亡くなりました。その矢は、本当に私たちの文明の心臓部を射抜いているのか?
グレーバーの主張は私たちの直観に訴える力を持っています。
私たちはいままで、正規でも非正規でも学生時代のアルバイトでも、「こんな仕事やっても意味がない」「毒にも薬にもならないことをしている」「暇すぎて死にそう」でも「お金が出るからやるしかない」と思ったことがあるのではないでしょうか。
もちろん、給料を払っているんだから雇い主は必要だと考えて働かせているはずです。無意味に思えても必要な理由があるのだろう、わたしたちはある程度はそれを無理やり納得しているはずですが、グレーバーはこう考えます。もし仕事をしている本人が無意味だと確信しているのなら、その仕事は客観的に見ても無意味である可能性がたかいだろう。
予想以上に多くの人々――およそ4割近くが自分の仕事を無意味であったり、社会に悪い影響を与えていると考えている。ということは、私たちの社会は4割近くも、本来やらなくてもいいような無駄な仕事に給料を払うことで回っているのではないか。その時間は本来は各人が自由に使うことができるはずだったのに、それが行動を制限され、精神的に傷つけられる時間になっている。
単に経済成長という視点から見れば、市場で交換される物やサービスや労働力が増大すればするほどよいはずです。しかし実際には、無意味な物やサービスが提供され、無意味な労働時間が増えている、つまり私たちを拘束する時間が増えているのが経済成長の本質かもしれないのです。有名な格言「供給が需要を作り出す」は、どんな建前であれなにか物やサービスを供給してしまいさえすれば、需要の帳尻は力づくでつけられるということかもしれない。
こうして経済が成長すればするほど、私たちは労働に自縄自縛されて精神を病んでいくのではないか。これが「ブルシット・ジョブ」が放つ矢です。
なお、次回は第5章~最終章までを扱います!
11月14日(土)19時に、
ナベノハウス+zoomにて開催予定です!!
レジュメ序章~第2章