ナベノハウス活動記録

熊本コモンハウス「ナベノハウス(鍋乃大厦)」@KNabezanmaiの活動記録です

霊的ボリシェビキ鑑賞会の記録

2月22日、新型コロナウイルスの流行が迫りくる熊本で『霊的ボリシェビキ』鑑賞会が敢行されました。

以下は鑑賞会の報告を兼ねつつ、『霊的ボリシェビキ』の解題に私個人の感想を交えた記事となります。「なべざんまい」の活動に興味を持ってもらえれば幸いです。

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霊的ボリシェ鍋

霊的ボリシェビキ。この言葉から、共産党宣言の冒頭を思い起こさない人はいないでしょう。

ヨーロッパに幽霊が現れる。共産主義という幽霊が――

霊的ボリシェビキはもちろん、この箴言に満ちたパンフレットからインスパイアされたホラー映画だ、そう誰もが思うでしょう。いえ、私たちがその期待に胸を膨らませてこの映画を見ることに決めたのです。

どこかの廃工場で降霊の実験が行われる。そこに集まった男女は「死に立ち会った」経験をもっている。そして、自らの体験を語る。そのすべてが録音されており、霊の呼び出される瞬間をとらえようとしている。

まず壮年の男性が語りはじめます。それは死刑囚の話でした。その死刑囚は看守に反抗し、その男性の前で驚くべき凶暴な力を発揮します。便座をはぎとり、同僚の顔面にたたきつけ、振りかざされる警棒をものともしない。その目には驚くべき光が宿っている。その男の抵抗には異常なものがあった。

これは追い詰められた労働者が共産主義によってこの世界の支配構造に目覚め、その力を覚醒せんとする瞬間です。その恐るべき力の前に警察権力も歯が立たない。しかし、ガスマスクをつけた警備隊が銃口を突きつけるとついに死刑囚は降参します。そして拘束衣を着せられ刑場に連れて行かれる。つまり、軍隊の動員によって暴力的に抑え込まれてしまう。

「結局いちばん怖いのは人間じゃないかってことですがね」と隣の若い男が感想をもらします。すると、杖をついた霊媒師が杖を振るってその顔をはたく。そしてボリシェビキ党歌を全員が合唱します。

資本家の一人一人が凶悪な人間だから、労働者はこんなに苦しめられるのだろうか?否、断じて否なのです。それは単なる個人的な振る舞いの問題ではなく、社会の、歴史の鉄の法則によって必然的に生じる問題なのです。ならばボリシェビキ、つまり多数派たる労働者がそのまま政治の多数派を獲得することで、共産主義の社会が舞い降りてくる。合唱の最後に映し出されるのがレーニンスターリンの肖像です。

次に、水害で死んだ家族の家を訪れた女性が、そこである女性に死者の詳細な説明を受け、この女性はいったい誰だろうと振り返るとはだしの足だけがはっきり見えたという夢を語ります。突然皆が笑い出しますが、その場にいない低い笑い声が聞こえて沈黙する。資本家が共産主義は死んだと高笑いをしているとき、まさにそれが共産主義自体の笑い声に変わる。それが資本主義の終わるときなのです。

ここに二段階革命論の本質、徹底した資本主義こそが真のプロレタリア階級を生み出し、革命を成就させるという逆説があります。それまでは、資本主義の中で共産主義は幽霊として語られる。だが、その幽霊は資本主義という「場」をゆがめ、異常をきたし、経済の時空を攪乱します。アジア経済危機、サブプライムローン破綻とリーマンショック、そして米中貿易戦争、冷戦が終わっても世界の危機は終わらぬばかりかその緊迫の度合いを増しています。そして、「百年に一度」の経済危機が何度も訪れる。確率が異常をきたすのです。次ぎ次ぎと当てられるトランプのカードのように、平仄を合わせて経済危機が相次いでいく。

霊的革命が科学的革命となるときが近づいているのです。

続いて、激しい労働で弟を失い、自らも片足が不自由になった話が語られます。こうして霊媒師は幽霊を、つまり共産主義を「感じる」体質に変わったのです。だが、共産主義はいまだ妖精の姿をしていた。つまり、空想的なものにとどまっていた。

だが、革命の火の手は廃工場の間近に迫っていました。資本家たちは労働者が焼き尽くされていくのを眺めていた。しかし、それが自分自身を焼いていることに気が付く。まぶたが焼け落ちて目もとじられません。ただただ、自分が焼かれていくのを見ることしかできない。空想が科学へ、そして現実になろうとしています。

そのとき、労働者のストライキによって工場が停電します。

ついに共産主義の幽霊が降臨します。ところが、革命戦士たちはここで自分の罪を告白しはじめます。一人は、二股をかけていた恋人を殺し、その罪をもう一人の男になすりつけたことを話し始める。彼は「女が化けて出ることはなかった」と言いますが、ポケットに入った数珠を見て怖くなったとも打ち明けます。人間は必ず誰かを利用した過去を持っています。属した階級の如何に関わらず。では、正義とはいったい何なのでしょうか?それは誰が担えるのでしょうか?

さらに、若い女性が母が本物の「由紀子」をすり替えたことで自分が生き延びたことを告白する。極限的な状況を切り抜けたことによる罪の意識、ここは本来自分が存在している場所ではないのではないかという不安。こうして廃工場は自己批判の場所に変わります。誰もが真の革命戦士たりえないことが分かってしまう。

こうして凄惨な内ゲバが始まり、若い男がスケープゴートに選ばれ、喉笛を切られ血を抜かれて殺されます。「スターリンの恐怖政治こそが、ボリシェヴィキの究極の形態だ」「死は恐れるに足りない」こうして、共産主義に代わって「化け物」が呼び出されてしまうのです。最後は実験の助手によって全員が撃ち殺され、共産主義の社会実験は失敗に終わったのでした。

という話では全然ないのですが、話の展開に追いつけず全員目が点になって終わってしまったため、共産趣味的解釈で引き倒すことにしました。まだまだ革命意識がたりません。