ナベノハウス活動記録

熊本コモンハウス「ナベノハウス(鍋乃大厦)」@KNabezanmaiの活動記録です

シェイキング東京・メルド 感想

ポンジュノ監督のセカイ系シェイキング東京は2008年に公開された、東京をテーマにしたアンソロジーTOKYO!』の中の一作だ。 ゼロ年代の薫りをふんだんに取り入れた、ポン監督が日本の社会や文化にしっかりアンテナをはっていたことが窺える作品である。

テーマはひきこもり。当時は伝説的名作『NHKにようこそ!』がアニメ化され、ニートアダルトチルドレンといった言葉が世論を飛び交っていた。いまやどこか懐かしみさえ感じるひきこもりに加え、ボーイ・ミーツ・ガールと天変地異というセカイ系の設定をきっちり踏まえたものとなっている。たださすがにポン監督、そこには甘いドラマではなくむき出しの人間模様がえがかれており、恋愛ものを期待すると砂を噛むような後味が残ることになるだろう。

主人公の男は10年間も外に一歩も出ず、父からの仕送りで生活している。かつては手紙を送ってきた父も、いまでは現金を送るだけの存在。むしろなまなましいピン札の質感にリアルな存在を感じてしまうほどだ。人間関係が完璧に金銭関係に置き換えられたものと言える。 男の部屋は物が多いが奇妙に片つけられていて、ゴミ屋敷ではなく生活感のある部屋だ。つまり、この男はなげやりに引きこもっているわけではなく、ひきこもりの生活を選び取りつくりあげているのだ。

男の主食はピザ。決して配達人と顔を合わせず、うつむいてピザを受け取り、食べ終わるときれいに空箱を積み重ねる。このピザタワーが部屋で異彩を放っている。決して他人と顔を合わせない男。しかし、誤って配達の少女と顔を合わせてしまう。キョドる男。そのとき地震が起こり、少女はその場に倒れる。ますますキョドる男。台所に走るとコップに水をつぎ自分で飲む。少女の前で再び狼狽を始めるが、腕に描かれたボタンのタトゥーを押すと少女は「起動」し、一つだけさかさまに並べられていたピザの箱を指摘すると去って行った。

もちろんこの地震はひきこもりの男の自我の揺らぎである。そして、緻密に積み重ねていったはずのひきこもりの食い違いを指摘されることで、男はどうしてもその少女に再び会いたいと思うようになり、またピザを注文する。ところがやってきたのはむさい中年の男。どうやら配達の少女がひきこもりになって仕事に来なくなったことに腹を立てている。いきなり部屋に上がり込んで来るや古びた電話をじーこじーこと回し、少女に電話をかけて怒鳴りはじめる。怒りのあまり、手にしたコップの水がほとんどこぼれてしまうほどだ。

これもまた他人の一つの形である。他人に興味を持つことは、同時に自分のテリトリーを他人に踏み荒らされることにもなる。しかし、一度開いてしまった扉を閉ざすことはもはやできない。出て行こうとする配達の男に少女の住所を聞いた主人公は、今度は自分から外に出てその少女を訪問することを決意する。

外に出ると、東京の街はだれもいなくなっている。みんなひきこもってしまったのだ。男はつたの生い茂った古びた家から自転車を取り出そうとするが、ツタが絡まっていて乗ることもできない。能動的なコミュニケーションの手段は完全に錆びついてしまっている。男は歩いて行くことにする。

誰もいない東京の街。

すべての直接的な人間関係が間接的なものに置き換えられてしまったようだ。ひきこもりとは、東京の将来する必然的なライフスタイルだったのかもしれない。なかなかラディカルな映像表現である。 ようやく少女のアパートにたどり着くが、少女は出てこない。そのとき再び地震が起こる。すると、恐れおののく人々が家からてんでに飛び出してくる。ひきこもり生活を脅かすような衝撃はときどき社会を襲う。

しかし人々はパニックになるだけで、地震がおさまると誰とも会話せずにそぞろに家の中へと戻ってゆく。 だが、男はアパートの中に戻ろうとする少女の腕をつかむ。戻らないでくれ!そのとき、偶然腕の「恋」スイッチが押される。不敵な少女のアップとともに、映画は幕となる。

観客は、大都会のベッドタウン、密集する狭い部屋、希薄な人間関係、突発する地震など、東京を「思わせる」イメージが過剰にとりこまれていることで、つくりものの東京、外の目から見た東京といった感覚に襲われるだろう。

 

同アンソロジーの中に収められたメルドは、ななななんとカラックス監督ではないか!凝りに凝ったポンヌフの橋以来なりを潜めていたカラックスがまさかこんなメルドーな作品を作っていたとは。カラックスなので難解な筋を覚悟される向きもあるかもしれないが、意外と楽しめる佳作である。

下水道に住み、マンホールから出てきては人々を襲う怪人メルドが現れる。一文字菊しか食べない偏食家で、歩き方も挙動も不気味、何を言っているのかもよくわからない。人々のあいだで話題になり、マスコミにも取り上げられるようになったある日、メルドは次々と手りゅう弾を投げて多くの人びとを殺傷する。警察が下水道を捜索し、旭日旗のかかった戦車の上で寝ているメルドを確保。裁判にかけられる。 フランスから、メルドの言葉を理解できる弁護士ヴォランドがやってくる。奇声を張り上げるヴォランドにメルドもついに重い口を割るが、挑発を繰り返して法廷は騒然。その頃、メルドの保釈を求めるデモと、メルドの絞首刑を求めるデモがぶつかり合い、メルドを崇める新興宗教も現れる。ついにメルドは処刑されるのだが、つるされたメルドはいつの間にか(おそらく下水道へと)消えていった……。

もちろん下水に流れるのは「クソ」であり、いわば社会の掃き溜めである。そこから這い上がってくるメルドは私たちの社会の暗部であり、もう一つの顔である。そこには様々な暗喩が込められている。

一つはホームレス。仕事をして住む場所を持つことが「できない」存在に蓋をするシステムと、それが突発的な暴力事件とともに顕在化する過程である。

一つは「外国人」であること。これは左派と右派のデモとからめて、移民への不安、「人権」の理念への反発である。もちろん死刑の存廃をめぐる対立もある。「人権」をどこまで立てるのかの試金石となっているが、メルド自身にはそうした考え方はかけらもないようだ。メルドに頭を悩ませているのは制度や世論の側である。

一つは旧日本軍の亡霊。それは日本国憲法の戦後体制を揺るがす日本社会の地下水脈である。

そして最後にオウムと地下鉄サリン事件の記憶。秩序の紊乱と破壊の神格化による社会規範の逸脱である。

こうした様々な問題の諸相を駆け巡った後、メルドは消え、再び地下に潜る。次はアメリカという予告はエスプリがきいている(適当)。 カラックスはこのメルドのキャラクターが気に入ったらしく、作品に再び登場させているらしい。メルドー。