ナベノハウス活動記録

熊本コモンハウス「ナベノハウス(鍋乃大厦)」@KNabezanmaiの活動記録です

『シンクロナイズドモンスター』鑑賞会の記録

12月14日、ハンドボール女子世界選手権大会決勝トーナメントも押し迫った熊本で『シンクロナイズドモンスター』鑑賞会が敢行されました。

以下は鑑賞会の報告を兼ねつつ、『シンクロナイズドモンスター』の解題に私個人の感想を交えた記事となります。「なべざんまい」の活動に興味を持ってもらえれば幸いです。

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キムチ鍋

 

予告編はちがうんじゃない?


『シンクロナイズドモンスター』予告編

この予告編から想像されるのは、「ダメウーマン」のドタバタコメディ、ソウルに出現する怪獣が敵のロボットを相手に大暴れ、といったところではないでしょうか。しかしそれとは全く異なり、この映画は徹底してシリアス。アン・ハサウェイ演じるグロリアの回復と成長の物語であり、周囲の二人の男性、特にジェイソン・サダイキス演じるオスカーの苦しみと破滅の物語です。グロリアもそうですが、オスカーの描写は克明ではっとさせられる。期待はずれなのは期待のさせ方が間違っているのです。

どうして「ダメ」になったのか?

グロリアはアメリカとカナダが国境を接するメイン州の地方都市からニューヨークに出てライターとなった「出世頭」です。しかしニューヨークでは連日ホームパーティーで酔っ払い、記事の問題発言がもとで職も失ってしまう。そして付き合っているティムはグロリアに癇癪をおこし、勝手に荷物をまとめると「俺が戻ってくるまでに出て行け」と突っぱねます。

グロリアの記憶はちぐはぐで、単なる酒好きではなく依存症の気のあることが仄めかされています。そして恋愛関係においても、支配的かつ共依存的な男性を選んでいます。ティムはグロリアにいつも「腹を立てて」おり、苛立つ自分を気づかうよう求め、自分がいなければお前は「ダメ」なことを確認します。ティムが突然グロリアを叩き出すのも、グロリアに一人では生きていけないことを分からせ、戻ってきたグロリアをさらに支配しようとする計算があってのことです。ティムは嫉妬深く、グロリアが自分の知らないところでいろいろな人と飲んでいることを快く思っていなかったのでしょう。

ニューヨークに一人で出てきた女性が、拠って立つ基盤もなく、酒や性的関係で破綻して行く。あるいは支配的なエリート男性の後ろ盾を欲するあまりプライベートが彼の暴力でずたずたになっていく。グロリアにはこうした背景が窺えます。

孤独なオスカー

グロリアが社交的で依存的であり、いつも誰かと一緒にいなければ済まないタイプであるなら、オスカーは自閉的で孤立的であり、誰かと一緒にいながらもどこかで壁をつくっているタイプです。オスカーは心の中では一番になりたい、主役になりたい、目立ちたいと思っている、しかし自分にその実力がない、地方のバーの店主として終わるほかないこともわかっています。だからニューヨークに出て行ったグロリアに「すごい」と同時に「なんで俺じゃないんだ」というアンビバレントな感情を抱いている。その関心の強さは、グロリアの記事をすべて読んでいるというところからも窺えます。

地元に戻ってきたグロリアにオスカーは驚きながらも歓待します。グロリアの提案に従って、半分使っていなかった店内を改装して広げたりもしています。グロリアがニューヨークでうまくいかなかったことにほっとしたのかもしれません。

オスカーは母を、そして父を亡くしていました。結婚もしていないようです。そのかわり、ジャンキーのガースとぱっとしない地元の青年ジョエルという二人の子分をかこっています。こうして自分の世界を作っている。そこにグロリアが現れたことで、歯車が次第に狂いだします。オスカーは自分の心のバランスを失っていきます。

 

なぜモンスターが現れたのか?

もともと、この映画はゴジラをモチーフにしており、当初はゴジラとよく似たフォルムの怪獣が東京に出現する予定でした。グロリアのノートパソコンには富岳三十六景のステッカーがあり、もともと「日本に現れる怪獣」を想定していた痕跡が残っています。

なぜモンスターが現れたのか。それは後半の回想で明かされます。小学校に登校中、提出する工作を持って歩いていたグロリアとオスカーに突風が吹きつけ、グロリアのソウルの模型が飛ばされます。木に引っ掛かった模型をオスカーが取りに行く。しかし、オスカーは突然その模型を踏み潰します。

グロリアはあまりのショックに声も出ません。しかし、その怒りが空間を越えてソウルに怪獣を出現させたのでした。声に出せない女性の怒りが怪獣の形を与えられたのです。ゴジラもまた、声に出せない原水爆への怒りが怪獣の形をとって噴出したものでした。怪獣はグロリアの破壊衝動です。

グロリアは、その衝動を抑え込む決断をします。ソウルに現れ町を破壊したことを謝ります。グロリアは暴力をぶつけられる相手のことまで想像力を働かせる。ここにグロリアの成熟が描かれています。対して、オスカーは破壊される相手のことを決して想像しません。常に自分のことがすべてであり、自分の鬱憤のためなら何度でもソウルの市街に現れます。

インセル

カナダでは2018年4月にトロントで、レンタカーで暴走し女性を中心に10人を殺害した事件が起こりました。この映画の公開後の事件ですが、私は犯人の動機とオスカーの心理との類似性を感じました。

オスカーはこの世の中に対する激しい憎しみをひそめています。できることならぶち壊したいと思っている。自分の境遇にも、周囲の社会的成功にも苛立ちながら、しかし表では親切なバーのマスターの顔を作ることも忘れません。自分にはその仮面が一番ぴったりくることがわかっている。しかし、内心とのかい離はすすみます。

しかも、その憎しみはオスカーが社会に出てから様々な不幸に見舞われて形成されたものとは言い切れない。その要素ももちろんあるでしょうが、それは同時にオスカーの子どものときからの感情でもある。小学生のグロリアが作ってきたソウルの模型をオスカーは突然踏み潰します。オスカーの自己イメージである巨大ロボットは、とにかくなんでも壊したいという子どもっぽい破壊衝動の投影です。そして、オスカーはその心に決着をつけないまま、成熟しないまま、子どもの心をそのまま成人してからもずっと持ち続けている。

ソウルに自分とシンクロするロボットが現れることを知ったオスカーは、とつぜん酒びたりになり、気が大きくなり、隠していた自分の一面をさらけだします。その衝動は女性蔑視にこそ結びついていませんが、誰にも救われない(と自分で決め込んでいる)抑圧された内面という点でインセルと同質のものであるように思われました。

オスカーの仮面

映画の中盤、オスカーはグロリアに協力し、ソウルの地上に韓国語で謝罪ことばを書くことにします。オスカーは最後に、グロリアと一緒にソウルに登場するつもりでした。しかし、グロリアはこれが自分が起こした問題であり、自分一人で謝るつもりでした。オスカーは本当は、良心的ロボットとして韓国の、世界中のヒーローになりたかった。その舞台をグロリアに「奪われて」しまったと感じます。だから、オスカーは再びソウルに現れることを決める。今度は自分がヒーローになる番だというつもりなのです。もちろん、人がいつどれだけ死ぬかもわからない危険な遊びをやめるようグロリアが迫ります。そして平手打ちを食らわせる。このとき、オスカーのプライドはずたずたになりました。

ここから完全に二人の関係は逆転します。ニューヨークで失敗したグロリアを助けているはずだったオスカーは、逆にグロリアから閉店後の飲酒を注意され、平手打ちの動画を何度も見ながらさらに自暴自棄になっていく。

ジョエルとグロリアのワンナイトがオスカーの心をかき乱したという見方もできますが、オスカーがグロリアに性的なアピールをする描写はありません。そのかわり、ふいにキスをしようとしたジョエルにオスカーが怒る場面があります。自分の子分のつもりだったジョエルがグロリアとワンナイトを決めた(まさかあの能無しがこんなことをするなんて!)という動揺が、酒を飲んで砂場で悪ふざけをするきっかけになったと私は読みます。

こうしてオスカーは再びソウルに現れ、グロリアと大喧嘩になります。ここでオスカーは、自分のつくりあげてきた「いい人」の仮面がはがれかかっていることに気づく。突然グロリアに親切の押し売りをして、自分が「いい人」であることの確認をしようとします。グロリアにも泣いて謝ります。しかし、本質的に、オスカーは相手のことを考えることができないタイプです。本当にいい人なら相手が相手のためにする決断を尊重するでしょう。オスカーは、「いい人」のメリットが無いと判断すればそれを捨てるだけの打算をしっかり持っています。

グロリアを取り返そうとティムがやってきたとき、オスカーはこれをグロリアとティムの関係からティムと自分の「対決」に勝手に置き換えてしまいます。そしてわざと自分の店を打ち上げ花火でめちゃくちゃにし、「それでもグロリアは残る」と宣言してティムを追い返す。こうしてニューヨーク男の鼻をへし折り、一時の「勝利」を得たものの、グロリアが帰ってしまうのではないかという不安に耐えきれません。そして勝手に部屋に入ってグロリアを監視するいう暴挙にでます。オスカーは「いい人」を捨てることを決めたのです。

ソウルから見えるアメリ

グロリアは支配というかたちで依存して来るティムも、いつまでも自分中心の世界に固執するオスカーからも離れる決心をします。

オスカーはグロリアを呼び戻すために、ソウルを破壊しようと威嚇する。その気になれば彼女の大切なものを壊せるんだというかつてのシーンの再現です。しかし、グロリアは反撃の手段を思いついていました。アメリカから韓国に怪獣となって現れるオスカーに対抗し、韓国から怪獣となってアメリカに現れるという盲点を突くのです。

これがなぜ盲点かといえば、アメリカにとって韓国は小国であり、自分を脅かす存在ではないからです。怪獣(軍隊)を送ることができるのはアメリカです。自分の一存でソウルを破壊するかどうかも、アメリカが握っているはずなのです。ところが韓国からアメリカに怪獣が送り込まれてきた。オスカーのアメリカは動揺します。

「Put me down... Right doun you, fucking bitch!」

次の瞬間、オスカーは虚空に放り投げられます。それは、この世界は自分だけですべてを仕切ろうとするものではない、相手の立場に立つ相互的なものでなければならないという印象的なメッセージとなっていると思います。

そして映画は、男性たちから解放された一人の女性を、怪獣から解放された人々の歓喜の輪で囲んで終わります。

まさに、怪獣映画の佳作ではないでしょうか。